麻雀漫画『哲也』創作秘話。浦沢直樹の助言に背中を押された新人時代を作者が語る
3月4日(日)に高知県が主催するイベント「全国漫画家大会議 in まんが王国・土佐」が行われ、ニコニコ生放送ではその模様を生中継でお届けしました。
ステージでは麻雀まんがの名作『哲也 -雀聖と呼ばれた男-(以下、哲也)』や現在連載中の『江川と西本』など、数々の作画を手がける星野泰視先生と、『哲也』を担当した編集者の都丸尚史さんが「星野泰視の漫画談~アウトローの流儀~」と題したトークセッションを行いました。
トークセッションでは星野先生が漫画家になったきっかけや、『哲也』の誕生秘話、さらに今回は『哲也』が原作の文章から絵になるまでの行程が公開され、ページを読者がめくりたくなるような工夫がされていることを明かしました。
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漫画家になれた理由は「僕も分かりません」
司会者:
まずは、先生がそもそも漫画家になろうと思ったきっかけというのは?
星野:
これが僕がもうすでに記憶がなくてですね、僕の母親に聞くと「小学校4年生の頃には言い出していたよ」と言われていて、ずっと絵を描くのは好きだったものですから。
それとあと、おそらくですけれど小学館の小学何年生っていうやつの付録に漫画の描き方とか、藤子・F・不二雄先生のだったんじゃないかなと思うんですけど、そういうのが付いているのをすごく見て、あぁそっかこうなるんだなとか、いろいろ考えて、それで小学4年生ぐらいになろうと思ったと思われるぐらいなんですけど、だから記憶はないんです。
司会者:
では本当に昔からの憧れの職業に就くことが出来たと。
星野:
はい。そうなんです。
司会者:
そうなんですね。なろうと思ってなれるものなんですか。
星野:
これは一概には言えませんで、僕が何で今までも漫画を描いているかは、僕もよく分からなくて、運が良かったとしか本当に言いようがない感じです。だから他のどなたかが「どうやれば漫画家になれるんですか」って聞かれたら、僕の答えは「僕も分かりません」とお答えするしかないくらいです。
司会者:
ではとても幸運に恵まれたということでしょうか。
星野:
そうですね。
司会者:
そのラッキーポイントっていうのはどんなところから来たんですか。
星野:
僕が「アシスタントに入りたい」って編集さんにお願いしたときに、ちょうどそのときに探している漫画家さんが浦沢直樹先生で、そこにアシスタントで潜り込めたのと、僕がちょうど新人賞の原稿を描いて、応募用の原稿を描いて週刊少年マガジンに送ったんですけど、ちょうどそのときに『哲也』の漫画の企画が立ち上がっていて。
漫画家を探していたときに、ちょうど僕が投稿したらしくて。僕が投稿する半年前とか半年後だったら、違う方がおそらく漫画を描いていたんじゃないかっていう。そういうところではちょっとやっぱり運はあったかなと。
司会者:
星野先生が描かれた漫画を都丸さんがご覧になられたということになるんでしょうか。
都丸:
そうですね。週刊少年マガジンは年に2回大きな新人賞をやっておりまして、星野さんがその新人賞に応募されて入選というですね、これなかなか出ないんですよ。普通佳作とかそれぐらいで終わっちゃうんですけれど、久しぶりに入選作が出ました。
それぐらい星野さんの新人賞の『ピロシキ大作戦』というタイトルのちょっとスパイものなんですね。それでちょっとアクションもあって、どんでん返しもあってという漫画なんですが、それが非常に面白くて。
それで新人賞をとると簡単な受賞パーティーをやるんですけども、そのときに並行して週刊少年マガジンのほうで阿佐田哲也さんという麻雀がとても強い方がいらした、その麻雀の漫画をやろうという企画、これは私のほうで出した企画なんですけれども。
それでやはり少年誌って若い新鮮な作家さんに描いてもらうのがいいだろうということで、やっぱり星野さんのそのときの新人賞の良さが、構成力がすごかったんです。
それで麻雀の漫画は構成力がないと分かりにくいと思っていたので、これはぜひ星野さんにちょっと聞いてみようということで。星野さんは新人賞のパーティーなので、割と楽しい気持ちで来られたと思うんですけど、僕らがそこを捕まえてですね(笑)。
星野:
はい(笑)。結構怖い感じで逆光になっていて、黒い3人組がズシズシと近寄って来てですね、「麻雀漫画を描かんかね」って聞かれた感じですね。
司会者:
突然現れたんですか。
星野:
そうです。もう何も分からないで、どこでしたかね場所は。
都丸:
場所はね、椿山荘ですね。
星野:
椿山荘。東京のちょっと豪華な立食パーティのー会場で、その当時の審査委員長である、『GTO』の藤沢とおる先生がいらして、先生にあとで二人になったときに「こういう麻雀の漫画を描かないかって言われているんですけど、どうしましょうか」って僕が聞いたら、藤沢先生は「危ないからそういうのはやめておけ」っておっしゃって。
あぁそうか、やめたほうがいいんだと思って、それでパーティー終わってすぐ当時まだアシスタントだったんで浦沢先生のところに戻って仕事場に戻って浦沢先生に「麻雀漫画描かないか? って言われたんですよ」って言ったら、「勉強になるからやりなさい」って言われて。
浦沢先生も下積みというかデビューしたてのときは、連載というちゃんとした漫画じゃなくてハウツーものの「BE-PAL」っていう雑誌があって、そこに本当に短いページの連載をされていて「それもすごい勉強になったから、君もやりなさい」というふうに言われて、浦沢先生のところを卒業して仕事を頂いたという経緯がありました。
司会者:
では浦沢先生が背中を押してくださったのがきっかけだったと。
星野:
はい。そうですね。
都丸:
ですから、講談社の漫画を小学館で描かれている浦沢先生が後押しして頂いたことで実現したということで、浦沢先生には本当に深く感謝しております(笑)。『哲也』は、結果的には長く続いたんですよ。だけど、当時麻雀の漫画を少年誌でやるっていうのは本当になかったので、編集部としてもすごい挑戦的な企画だったんですね。
だから悪いんですけど、半年で終わっちゃうかもしれないという気持ちも当然あって、星野さんも終わるんじゃないかなぐらいに思っていたかもしれないんですけれども(笑)。結果的に星野さんのお力もあって大ヒットしたということになりました。
三ヶ月の連載のつもりが気が付けば七年半に
司会者:
麻雀というのは元々詳しくご存知だったんですか。
星野:
浦沢先生のところでアシスタントしていたときに待ち時間がちょいちょいありまして、その間にいろいろスーパーファミコンとか当時だとプレイステーションの1ですかね、そういうのをやっていたりしてぼんやり過ごしていたんですけど、あるときアシスタント仲間が「世界一面白いゲームがあるんだけどやらないか?」って言って麻雀を教えてもらって。
それで要は体のいいカモにされていた感じでやっておりました。
司会者:
じゃ、あの棒の点数いっぱい取られたわけですね。さあ、その浦沢先生のところでずっとアシスタントをされていて、そこで麻雀も覚えたわけですけれども影響を受けた漫画家さんというのは?
星野:
はい。僕が一番今でも尊敬する漫画家さんは亡くなちゃったんですけれども、石川賢先生というダイナミックプロでご活躍されていた先生なんですけれども、本当に僕の好きな漫画家さんです。
司会者:
そうなんですね。それは昔読まれていた漫画ですか。
星野:
そうです。子供の頃から読んでいて、僕が東京に出てきたときにちょうど『魔界転生』という作品を発表されて、それがまたすごく良くて。今でもバイブルです。
(画像はAmazonより)
司会者:
そうなんですね。今でも?
星野:
今でも大好き。
司会者:
ずっとそうやって持ってらっしゃるものがあるんですね。
星野:
はい、あります。
司会者:
浦沢先生のアシスタント時代っていうのはどういうことをされるんですか?
星野:
普通に本当に浦沢先生がキャラクターにペンを入れて、あと背景を僕らアシスタントが入れてっていう本当に普通にアシスタントだったんです。
司会者:
アシスタントさんって絵柄が同じ様にはならないものですか?
星野:
なる人とならない人がいて、先生と同じになれる人はすごく絵が上手な方だと思うんですけれども、僕はどちらかと言うとそんなに器用なほうではなかったので、真似しようと思っても出来なかったっていうのが正しいかなって思います。
司会者:
オリジナルを作れるっていうのも、すごいことですよね。
都丸:
特に星野さんが浦沢先生のところで学ばれたのは、絵もそうだと思うんですけれど、たぶん構成の仕方、コマの割り方、浦沢先生って本当に漫画界で随一って言っていいくらい構成力が素晴らしい方なので、その薫陶を受けたのかなと思います。
司会者:
学んだことをちゃんと生かして、そしていよいよ『哲也』を描くことになったわけですけれども、その描き始めっていうのは大変だったんじゃないですか。
星野:
そうですね。週刊連載なので、要は一週間に一話上げなきゃいけないんですけれども、最初の頃は本当に時間がかかって十日とか一話にかけていたりして、これは無理じゃないかなとか思いながらやっていたんですけれど。元々は半年で終わるかも、本当は僕が聞いたとき三ヶ月で終わるかもって言われていたんで、じゃあこの大変なのを三ヶ月続ければいいんだなと思って。
締切の大分前からやっていて、描き溜めをして連載を始めようという話だったので、十日かかってもいいから一話一話やって、三ヶ月耐えれば全部終わると思っていたので、耐えてたつもりなんですけれど、だんだん「ちょっと伸びたよー」「伸びたよー」って言って、三ヶ月が一年になって二年になって、気づいたら七年半ぐらいですかね、やってたっていう。
司会者:
その三ヶ月が半年、一年ずっと続いていったっていうのは、どんな理由からなんですか?
都丸:
それは本当に人気があったということですね。それから変な話、単行本も売れた。それで哲也っていう麻雀の神様を描いたことによって、麻雀自体がちょっとブームになったりとかアニメーションにもなりましたし、そういう反響が大きかったのが一番大きい理由と、あと星野さんがどんどん描くのが速くなってきたんですよ。
最終的にはもう週刊少年マガジンの中で一番優良進行と言っていいくらいの、十日っておっしゃられましたけれども、五日くらいですか(笑)? そんなことはないですね(笑)。そんなことはないですけれども、一週間ぐらいでちゃんと終わるようになって、もう本当に星野さんっていう作家さんがすごくどんどん成長されて、編集サイドとしては嬉しい限りですね。