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そして、叡王へ……【流れゆく水のように 豊島将之竜王・叡王インタビュー 第3章】

 4歳の頃から将棋を始め、史上初の小学生プロ棋士の期待すらかかり、令和初の竜王名人となった、平成生まれ初のプロ棋士・豊島将之竜王(叡王)へのインタビュー企画が実現。

 聞き手を務めるのは、『りゅうおうのおしごと! 』作者である白鳥士郎氏。全3章に渡る超ロングインタビューをお届けしていく。

第1章 なぜ豊島将之は藤井聡太に6連勝したのか?

第2章 最強の棋士像

※取材は、緊急事態宣言の発出前に、感染対策を行ったうえで実施いたしました。


取材・文/白鳥士郎
撮影/諏訪景子

 関西将棋会館の3階にある棋士室は、奨励会員にならないと入ることができない、特別な場所だ。
 この日も数人の奨励会員たちが集まって研究を行っていたが、練習将棋を指している者はいなかった。
 豊島に、かつてよく座っていた対局用の長机に盤駒を置いて、座ってもらった。

「高校生になったら、よく来るようになりました」

 駒を並べながら、豊島は懐かしそうに当時のことを語る。
 言葉数は多くないし、マスクをしているから表情はわからなかったが、他の場所にいるときよりも楽しそうな雰囲気が伝わってきた。

「みんなで検討して、よく終電までいました。『帰りたくないな』って……」


『みんな』。
 それは稲葉陽や糸谷哲郎や宮本広志といった、同世代の仲間たち。プロ棋士だけではない。女流棋士や、プロになれなかった奨励会の仲間たち。
 ライバルであると同時に、学校にいる同級生たちよりも深く価値観を共有できる存在。

写真は2012年に撮影。

 豊島が関西若手棋士たちとフットサル合宿に行き、モノポリーをしたエッセイがある。実は豊島は、数は少ないもののエッセイの名手だ。
 真夜中に始まったそのゲームは、一人、また一人と脱落し、最後は稲葉と豊島の一騎打ちとなる。
 そして午前7時まで続いた激闘に勝った豊島が寝落ちし、起きてみると……稲葉がまだ感想戦を行っていたという爆笑のオチがつく。

 『将棋のプロというのはきっと、孤独な職業なのだろう』。将棋に関する漫画や小説を読んでそんなイメージを抱いていた私は、豊島たち関西若手棋士のことを知って、驚いた。
 こんな青春ど真ん中の日常を過ごしていることに。
 それを知ったからこそ私は、関西を舞台にした将棋の小説を書いてみたいと思った。
 ライトノベルにできそうなくらい、関西将棋会館の棋士室には、青春がきらきらと輝いていた。

 けれどそんな心地よい空間に、豊島は背を向ける。

「研究会もVSも、最後のほうは惰性で続けているような感じになっていました」

 電王戦が豊島を変えた。
 タイトルを獲れないまま棋士室で日常を消費することが、苦しくなっていった。
 豊島の短い青春は終わり、孤独な戦いが始まる。
 それは勝負師として当然の選択だったかもしれないが、難しい選択だったに違いない。

「ソフトは家で、好きなように検討できるので楽です。でも、みんなで集まって検討すると、誰かが意見を言ってくれる」

 最後に、5階の対局室……にも行きたかったのだが、この日は公式戦が行われておりそれは不可能だった。
 ただ、インタビュー用に押さえてもらっていた4階の和室でも対局は行われる。
 そこでの記憶を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「ああ、ここも思い出があります。奨励会はこの部屋でしたから。最初は……あの隅っこに座っていました」

 9歳で奨励会に入った豊島。
 当時と同じ場所に座ってもらった。棋士としてのスタートラインに。
 竜王になった今でも、その姿は意外としっくりくる。9歳のときの姿が思い浮かぶ。

「壁にもたれてたら、先輩に怒られました(笑)」

 関西将棋会館で対局中継が行われる場合は、この部屋が主に使われる。
 叡王戦の予選や本戦はここが戦場となった。
 話を聞くにはふさわしいだろう。

 いよいよ、ドワンゴが企画した最後の、そして最大のイベントについて尋ねる時が来た。
 電王戦からタイトル戦に昇格した、叡王戦について。
 最初は、まさにこの場所で行われた、あの対局について質問した。

豊島将之と叡王戦

──まずはタイトル戦に昇格した最初の叡王戦である、第3期叡王戦のことについて教えてください。

「はい」

──その期で叡王を獲得した高見先生が、本戦で豊島先生に勝って泣いたというエピソードがあります。その対局では豊島先生も、ミスが出たときにご自身の腿を叩かれたり……タイトル戦になった初の叡王戦にかける想いというのは、やはり強いものがあったのですか?

「でも、そんなにまだ……勝ったらタイトル挑戦というところでもなかったので。純粋に、途中までいいところのあった将棋だったので、悔しかったんだと思います

──その後、豊島先生はタイトル戦の第1局で解説役としてニコ生にご登場なさいますが、実はそれが解説役として初めてニコ生に登場した機会になります。そのときに私も観戦記を担当していて、ご挨拶させていただいて。

「そうでしたね」

──そのときの豊島先生の印象が……以前、岐阜の名人戦でお目にかかった時よりも、柔らかい雰囲気になっておられたと感じたんです。あの時は王将戦のタイトル戦だったり、3月に名人戦のプレーオフがあったりして対局が非常に多かったと思うのですが、それが豊島先生にとってよいリズムになっていたのでしょうか?

「うーん……まあでも3月は、最終的には負けているので。でも何か……なんか、いけそうな手応えは、多少はあったのかもしれませんね」

──前夜祭のステージで、金井(金井恒太六段)先生と高見(高見泰地七段)先生のどちらを応援するか聞かれて「どっちも応援しません!」というご発言がありました。会場は爆笑で、豊島先生も笑っておられたんですけど…………どこか本音のように聞こえて、私は笑えなくて……。

「あんまり……どっちを応援するというのは、いつもないので。あと、あれは(一緒に登壇した)山崎(山崎隆之八段)さんがすごくいいパスをくれたんで(笑)」

──あの対局の観戦記(『save your dream』第2譜 金井恒太六段―高見泰地六段:第3期叡王戦 決勝七番勝負 第1局 観戦記)、私は豊島先生を第3の主人公として書いていたんです。そうしたら後日、岡崎将棋まつりに行ったとき、豊島先生のファンの方から感謝されて……その方は目に涙を浮かべながら「豊島先生のこと、書いてくださってありがとうございます」と。そうしたファンの声援は、豊島先生には届いていましたか?

「そうですね……やっぱり、期待していただいているというのは感じていましたし。はっきり『これはもうダメだ』となるまでは、やり続けていこうということは、決めていましたし……」

「あの時は、何回やっても上手くいかないというイメージに、自分もなりつつありましたけど……でも将棋の実力自体は上がっていっている感触はありましたし、タイトルも……いけそうな手応えは多少、あったので。それがなくなるまでは、ひたすらやり続けるしかないと思っていました」

──ひたすらやり続けるしかない、という覚悟が固まっていたということなんですね。

「もう、何ていうか……『ダメでもダメでもひたすらやり続けて、挑戦者になり続けるしかない!』という気持ちでした(笑)

──その後、棋聖・王位・名人・竜王と堰を切ったかのようにタイトルを獲得なさいましたが、なかなか防衛できず……ということが続く中での、第5期叡王戦で挑戦決定となりました。そのときのお気持ちというのは?

「挑戦が決まったときは、嬉しかったですし……名人戦と完全に被る形になるので大変だろうなとは思いましたが……」

「持っているタイトルの数が大事だと思っていて。名人戦と叡王戦の二つを戦っていたほうが、可能性は高くなると感じましたし。あとは……」

「あとやっぱり、電王戦からお世話になっていて、いつかは……と思っていたので」

「いつかは、叡王戦のタイトル戦に出たいと思っていたので。決まって嬉しかったですし。(挑戦権を争った)渡辺(渡辺明三冠)さんには棋聖戦とかでも負けてしまっていましたから。結構、充実感がありましたね」

──永瀬(永瀬拓矢王座)先生との叡王戦七番勝負は実質的に十番勝負となり、歴史に残る激闘となりました。あそこまでの激戦は予想しておられましたか?

「あそこまで長くなるとは(苦笑)」

「あんなに持将棋が連発するとは思わなかったですし、一局目も千日手になって」

──持ち時間が変動するというドワンゴの叡王戦独自のルールが影響したと思われますか?

「持将棋になった3局目とか、4局目もそうですけど、1時間の将棋。もっと持ち時間が長ければ負けていたと思いますし、4局目はこっちが優勢になっていたら勝っていたと思いますし」

──1時間のタイトル戦なんてないですもんね。しかも1日に2局指すなんて。

「そうですね。1時間はキーになるかな、と思っていて。3局目で負けても、4局目を指すことになる。そういうことってあんまりないですから。1日2局というのはありますけど、勝ったら2局目もというのが多い」

──あのスタイルでのタイトル戦というのは、残念ながらなくなってしまったのですが……得られたものはありましたか?

「持ち時間が変化していくというのは初めての経験で、勉強になったというか。あと永瀬さんも持ち時間によって作戦を変えてくるというのがありました。作戦の幅が広くて、振り飛車もあるし、横歩取りもあるって感じで。そういうところは手強いというか、見習いたいという」

──なるほど。永瀬先生の手強さが出やすい戦場だったと。

「第4局とかは、すごく粘られて負けてしまいましたし。持将棋になって、次の対局であそこまで頑張れる人というのは、そんなにいないと思いました(笑)」

──終わって、タイトルを獲得なさったときは、どう思いました?『やっと終わったー!』みたいな?

「名人戦で負けて、タイトルが一つになってしまっていたので、獲得できてホッとした……という感じですね」

『いつかは、叡王戦のタイトル戦に出たい』
 そう思っていた叡王を激戦の末に獲得し、やはり感慨深いものがあったのだろう。
 これまでは私が一つ問えば一つ答えが返ってくるという感じだった豊島の口から、自然と言葉が溢れてきた。
 ドワンゴと電王戦への、感謝の言葉が。

 

 

「偶然の連続というか……そういうので今の自分があるな、と思います」

「うん……電王戦が始まって、それに自分が出て……うん。もし電王戦に出ていなかったら、ソフトを扱うようになるのも、もっと遅れていたと思うんです。そうすると多分、序盤のところでそんなに差を付けることができていないと思うので、タイトル戦にもこんなにたくさんは出られていなかったんじゃないかなと」

「そうすると、やっぱりちょっとずつ、何か……やっぱり電王戦があったから」

「でも、すごく懐かしいですねぇ電王戦。思い返すと。自宅にも来てもらって、それでパソコンの設定とかあって、家の近くでバドミントンしたりもしましたし(笑)」

──やりましたねバドミントン(笑)。

「あと、電王戦で使ったパソコンをそのまま研究に使わせていただいたので、それもすごく大きかったです」

──その後、買い換えておられるんですよね?

「そうですね。あの時のは、1秒間に400万手とか読むくらいの感じでしたけど」

──こだわって高い性能のものを買っておられるんですか?

「白鳥さんの記事にもありましたけど、コア数が増えると読める量が増えて強くなると…………でも、そこまで強くなっている感じがしなくて……」

──ソフトの成長が頭打ちになっている感じがあるとインタビューでおっしゃってましたね。

「そうですね。特にここ数年は、強くはなっていても人間にはよくわからない感じ……ですかね。自分の実感としては」

──渡辺先生も囲碁の井山裕太先生との対談で同様のことをおっしゃっていました。今後、ソフトとの付き合い方という面で……ディープラーニングが話題になっているんですが、豊島先生の感覚では、ソフトを使った研究というは、既に極限まで来ているという感じなんですか?

「ディープラーニング……というか、GPUを使うソフトは、CPUを使うソフトと比べて、家庭用のパソコンで動かすという点では、現時点では少し劣っていると思うので。そこが変わればまた変化するかもとは思いますけど」

「昔だと、半年前のソフトに9割勝つとか、そんなソフトがどんどん出てて。そういう状況だと、序盤の知識とかを見てマネするだけでも結構大変というか……そこについて行くのが大変だし、でもそれについて行けたら、それをやるだけでも普通に、やっていない人と比べたら勝てる、というのがあるんですけど……今はそういう状況ではないですし」

「停滞しているといえば、停滞しているのかもしれませんけど。でも、ソフトは明らかに強いですし、もっと上手く活用できるような可能性は、ありそうな気がするんですけど。強くなるための方法というか。でもそれが、ずっとわからないままやっているというか……」

──ソフトを作っている人たちは、人類の検討に役立てて欲しいという気持ちが強いです。そのために、居飛車振り飛車どんな局面でも満遍なく強いソフトを選び出そうと、自分たちで大会まで開いてるくらいですし。

「ああ。やってましたね。指定局面でたくさん対戦させる」

──いかがです? そういうソフトは、プロの目からして検討に役立ちますか?

「そのへんは難しいというか……振り飛車が強いソフトとか、居飛車の最新形で強いソフトとかあって、水匠とかは居飛車の最新形に特化していると思うんですけど。でもそれでも十分、振り飛車も強いというか(笑)」

──確かに(苦笑)。

「微妙な差で……そこまでは何か、わからないというか。わからない世界ですね。微妙に評価値が違ってくると思うんですけど、それで勉強したとして、どれくらい利いてくるかは、わからないというか……」

──タイトル戦をこなされて、ご自身で課題が見付かって、しばらくはそれに取り組みたいと語っておられました。具体的には、どんな課題に?

「ええと……」

──言いづらいですか?

「言いづらい……ということはないですけど。名人戦と叡王戦があって、まず名人戦では、渡辺さんがわざと評価値が下がる手を選んで」

──ありましたね。第1局で、囲碁のやりかたを参考にしたと。

「それで実際、時間を使う展開になってしまって、私が負けたんですけど。そういうやりかたとかも出てきて。前からあったといえばあったんですけど」

「叡王戦だと、永瀬さんは作戦の幅が広くて、深くも研究しているし、その研究から外れたとしても、やっぱり上手く指してくるというのがあって。そういうのを取り入れたいなというのがありまして」

「でも永瀬さんのように、研究会を多くしていくというスタイルにしても、永瀬さんのよりも上手くはできないと思ったので(笑)」

──確かに永瀬先生のマネは誰にもできなさそうです(笑)。

「自分なりに考えつつ、近いような……違う方法で、今強い人たちが持っているような力というのを身につけたいなと。そういう感じですかね」

──自分がやろうとしている方法が空振ってしまったときの恐怖というのは、ありますか?

「恐怖?」

──時間を費やしても、思うに伸びなかったりしたら? みたいな。

「ああ……恐怖というか、上手くいかなかったときのことは常に考えていますね。でも、本当に、上手くいったらそれは運がよかったというか……」

──運。

「もちろん自分の中で考えて、上手くいくように考えるんですけど、結局、やってみないとわからないところがあるんで」

「自分の感覚だと、トップの数人とか10人とかに入ろうと思ったら、うまく自分のやっていることがヒットしないと難しいというか」

「まあそれでダメだったら、ちょっと下がるというか……上位20~30くらいまで下がることは、あると思いますし」

「上の人たちで、能力的に自分よりも抜けてすごい人はいますけど(笑)。でも、自分と上位20~30番くらいの棋士たちとのあいだに、そんなに差があるとは思わないので」

「だから、まあ、やってることが当たらなかったら当然下がるだろうなということは思っています」

──課題を見つけて、方法を考えて、それを克服していく。それが最も重要だということなんでしょうか?

「人によるんでしょうけど(笑)。自分は、まあ、うーん……自分のやってみた感触としては、タイトルとかA級とかに上がる人たちと比べて、自分が才能とかで優れているとは思わないので」

だからやり方で工夫していかないと難しいと思っているので。それが上手くいけば、自分の思っているような結果が出るんでしょうし。普通のことをやっていては厳しいんだろうなということは、思っているので……」

──電王戦に出られたときも、そうおっしゃったと聞きました。『普通のことをやっていては結果に結びつかない』と。だからソフトと戦うんだと。

「将棋を覚えて、奨励会に入った頃までは……あんまり9歳とかで奨励会に入った人はいなかったので。自分の才能に自信を持っていたときもありましたけど」

「強い人たちの中でやっているうちに、そういうことは思わなくなっていって」

「努力……まあ、王将戦に挑戦するくらいまでは、普通のことをやっていたというか。序盤とかをすごく意識するようにしたら、勝てるようになりましたし。自然にやっていけば……と思っていましたし。でもなかなか、難しいのかなって……」

──だとしたら、電王戦で得られたものというのは……コンピューターではなくて、方法を自分で考えて挑戦していくことだったんでしょうか?

「ああー…………ああ……確かに、そうかもしれませんね」

「うん……まあでもそれは人にもよるんでしょうけど(笑)。普通にやって強くなる人もいるんで(笑)」

「あと思うのは、電王戦の頃のソフトは使っていても結構落とし穴があったので。今のソフトは普通にムチャクチャ強いですけど。だから、普通にやって普通に強くなれる人も、いると思います」

自分が納得できる将棋を一局でも多く指したい

──最後の質問なんですが、稲葉先生がご結婚なさったり、船江先生が公認会計士の試験に合格なさったり、周囲が人生の岐路に立つような年齢になってきました。そういった変化に、豊島先生は何か思うことは……?

「え? あ……結婚、ですか?(笑)」

──あっ、いえ。その…………我々のような普通の人間ですと、あの……周りが結婚とか、進路を変えたりすると、焦るような部分があるんです。でも豊島先生は、将棋にずっと向き合ってこられて、結果が出なくてもブレずに向き合い続けられた。そこが凄いなと思っていて。

「すごいかどうかはわからないですけどね。失敗してたら酷いので(苦笑)」

「本当に、タイトル獲る前は将棋しかやってなかったので。そんなに……まあ、いい生き方というものがあるのかはわからないですけど、少なくとも自分の生き方は、いい生き方ではなかったですけど……『これしかないかな。しょうがないかな』という気持ちでやっていたというか」

「や、なんか色んなことを幅広くやって、それで……リスクを分散するというか、そういうほうが、何て言うか、うーん……正しい、ということはないんでしょうけど、『そのほうがいいんだろうな』とは、思っていましたけど」

「でも自分は、どうしてもそれはできないなと思って、ただ将棋をやっていただけなので……」

──今後も、そういう『リスクを分散する』ような生き方は、しないというか……できないというか、しづらいというか……。

「いやぁ? 自分の中では『タイトルを1回獲りたい』というのがすごく大きかったので。それができるか、絶対にダメだとわかるまでは、他のことは難しいなぁと。思ってたんです…………けど」

──けど?

「今は、せっかく今まで将棋をやってきて、一番いい場所で指せるようになっているので。それで他のことに手を出すのは……公認会計士の試験を受けたりとかは。ふふふ」

──さすがにそこは(笑)

「将棋以外のこと、やってみたい気持ちはありますけど。でも、まあ……そうですね。将棋、このまま続けて、少しでもいい結果が出るように続けていくのが、自然かな……という感じですけど」

──タイトルの数を増やすことが目標になるんでしょうか?

タイトルを獲りたいというか……タイトル戦に出続けたい、という気持ちですね。タイトル戦に出て将棋を指していると、やっぱり充実感もありますし。あとは、自分が納得できる将棋を一局でも多く指したいということです」

「ひどい将棋を指してしまうと『ああー……! ダメだなぁ……』って感じるので(笑)」

 

 

 現代将棋の礎を築いたのは、羽生世代だとされる。
 将棋の真理を追い求め、道無き道に定跡という名の舗装を施した。共同研究という、強くなるための効率的な方法すら提示した。それは将棋の歴史上、希有な天才たちが膨大な時間と労力を費やした試行錯誤の末の成果物だった。
 だから羽生の次の世代は、羽生たちが舗装した高速道路の上を走ってどんどん強くなる……はずだった。
 しかし現実は、非効率な試行錯誤を続けた羽生世代が、長く将棋界のトップに立ち続ける。
 豊島自身も羽生という高い壁に跳ね返され、心折れた瞬間もあった。

 豊島は、羽生世代がやってきたことを、ソフトと共にやったように思える。
 同世代の人類との切磋琢磨だけでは足りないと感じた豊島は、強くなっていく過程のソフトといかに向き合うべきか試行錯誤を続けた。
 その試行錯誤は時に無謀で、時に進歩的で、豊島自身を深く傷つけもした。
 だが羽生世代が50代を迎えても力強く第一線で戦い続ける理由が試行錯誤なのだとしたら、豊島もまた、長く第一線で戦い続けるだろう。


 ドワンゴもまた、IT企業が将棋というコンテンツといかに向き合うべきか試行錯誤を続けた。
 棋士だけではなく開発者たちに活躍の場を与え、魅力的なソフトが次々に産まれる環境を整備した。
 しかしその過程であまりにも大きな傷を負い……将棋から距離を置くことになる。
 そして現在、ドワンゴが確立した手法は、より洗練された形で様々な企業に引き継がれている。
 だが果たして、その洗練されたスタイルから、何が産まれるだろう?
 対局に評価値を表示する。それはいい。
 しかしプロですら、それだけでは何もわからない。
 ドワンゴが示した人類とAIとの、互いに血を流しながら前に進む試行錯誤こそが豊島将之という不世出の棋士を生み出したのだとしたら?
 豊島が活躍を続ける限りは、その独特の将棋観の中に、私たちは電王戦の鼓動を感じることができるかもしれない。
 けれど……けれどそれもいつか、消えてしまう。
 この関西将棋会館のように。


 インタビューを終え、追加の写真撮影も終了すると、豊島は立ち上がる。
 私も片付けを終えて立ち上がった。
 予定していた質問は全てしたし、豊島も質問には全て答えてくれた。
 けれど……何かまだ、聞くべきことがあるような気がしていた。


 関西将棋会館が移転する高槻には、豊島の師匠である桐山清澄九段が住んでいる。
 野澤亘伸さんの『絆―棋士たち 師弟の物語』によれば、豊島は1999年4月4日に初めて高槻の桐山邸を訪れて入門試験を受けた。
 以来、毎月1回、阪急電車と市営バスを乗り継いで師匠の家へ通ったという。それは16歳でプロになるまで7年半、続いた。
 だとすれば、高槻には思い入れがあるのでは?

「ええ。でも(関西将棋会館が移転する)JR高槻駅の周辺は、ほとんど歩いたことがなくて……」

 阪急高槻駅周辺には昔ながらの商店街が広がるが、少し北にあるJRの駅周辺は大きなビルなどが建ち並ぶ。豊島は嬉しいような、不安そうな表情だ。初めて師匠の家へ行ったときも、こんな表情をしていたんだろうか。
 新天地で、豊島は何をするのだろう? タイトルへの呪縛から解放された豊島は……。

 ふと、持参したけれど使うことはなかった自著『りゅうおうのおしごと!』が目に入った。あとがきに豊島のことを書いた2巻。表紙には、主人公の竜王が弟子に取る、2人の少女の姿。
 思わずこう尋ねていた。

「将来的には弟子を取ったり……?」

(画像はAmazon「りゅうおうのおしごと!2 (GA文庫) 」より)

 答えを期待して投げかけた言葉ではなかったが……意外にも、豊島は即答した。

「そうですね。自分のやっている『強くなるメソッド』が確立できたら、いつか発表したいという気持ちはあります」


 ……その答えを聞いて、嬉しくなった。
 ドワンゴと共に歩いてきた道を、豊島は後世に伝える価値のあるものだと思ってくれている。
 効率は良くなかったかもしれない。失敗もたくさんあった
 けれどそんな試行錯誤の連続を、豊島もきっと、貴重なものと考えてくれている。自分一人で終わらせるのではなく、誰かに伝えたいと、強く思っている。

 電王戦は役割を終え、それを引き継いだ叡王戦はドワンゴの手を離れた。電王戦、リアル車将棋、持ち時間が変わるタイトル戦。ハチャメチャなその全てを経験した棋士など、二度と生まれはしないだろう。豊島将之以外には。

 その経験は、捨てたくても捨てられない。だって人間は、バージョンを元に戻せないのだから。
 変わってしまった自分を否定するのではなく、それを受け入れ、変わり続けるしかないのだから……。

 豊島はこれからも試行錯誤を続ける。強くなるメソッドを完成させるまで。
 その日まできっと、豊島は変わり続ける。たった一つだけ変わらない素朴な気持ちを抱き続けたまま、変わり続ける。

 流れゆく水のように。決して腐ることなく。


(了)

第1章 なぜ豊島将之は藤井聡太に6連勝したのか?

第2章 最強の棋士像

 

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