「AIは魂を持つのか? ゴーストが宿るのか?」押井守(映画監督)×山田胡瓜(漫画家・『AIの遺電子』作者)特別対談
人工知能は人間を仕事から解放してクリエイティブにするのか?
山田:
最近、人工知能に関連して「人間の仕事が無くなる」みたいなことが話題になるんですよね。事務的な仕事とかがどんどん無くなって、「人間はもっとクリエイティブなことに従事するんだ」みたいなことを言う人は多いんですけど、ホントにそうなるのかって疑問がありますね。AIにも出来ないようなクリエイティブな仕事って、誰もが出来ることじゃないんじゃないか。そうじゃない生き方にも価値があるし、みんながみんなクリエイティビティを求められるのってどうなんだろう? という思いもちょっとあって……。
押井:
別に、世の中は第1次産業と第2次産業とドンドン人口が減っていって、第3次産業だけで、ドンドン膨れ上がっていって、アメリカなんか第1次産業がドンドン潰れていったけど、それは海外に拠点を作っただけの話。人間も世の中も似たようなもので、誰もがある一定の層に収まって入れる訳ないんだよね。当たり前の話で。AIの科学技術の進歩によって、人間が第1次産業とか第2次産業とかから解放されたとして、みんながクリエイティブに精神的な生産活動に入っていけるかといったら、そんな訳無いじゃん。
山田:
そうですよね。
押井:
創作活動に関わらず、人間が有能でありえるのは5%だって。一説によれば30%や20%という人もいるだろうけど、5%。実は文化というのは、基本的にそこに依存するしかないんだよね。あとは何かと言ったら享受する立場で、それが無かったらそもそも5%というのが成立しないから。
映画の見方をちゃんと知っていて映画の評価の仕方を知っているという、映画的教養に満ちた人間の数がどんどん減っていって、そうすると作る側自体が成立しなくなる。端的に言って色々な客が取れなくなるし、今の日本映画は正にそうだから、皆同じ映画になっちゃった。高校生の映画ばっかり、あれもこれもみんな漫画が原作、最近アニメが原作もあるんだけどさ。そういうのでいうと、文化ってさ、享受する側が前提として存在しないと、クリエイティブな人間って産まれようがないんですよ。享受する人間というのは、ある意味でいえば5%の供給源でもあるんです。要するに予備なんですよ。5%が絶えず入れ替わっていくんですよ。母数のないところに文化なんかあるわけないんです。実は。全員がクリエイターになったら、誰が、それを見て誰が評価するんだっていう? お互いに? そういう未来は決して来ないだろうと思っている。
押井:
実際、僕は技術的なものが進歩したとして、じゃあ農業をやっていた人間がいなくなるのか? というと。逆に、それこそクリエイティブに農業をするのが現れるだろうと。だから、漁業が衰退しても釣りをしたいという人間は絶対にいるんですよ。植物を育てて収穫したいというのは、経済的な行為である以前に、最初にやった人間は面白かったに決まってるって! 苦労の成果が形になるから。しかも、小説を書いたり、映画を創ったりするよりも、遥かに分かり易い。それは誰もが認識する価値だから。そういう意味では共感を呼びやすいんですよ。
山田:
ああ、そうですね。
スマホという外部記憶装置を持つことで人間がAI化されつつある
押井:
これは、ある先生が言っていたことで、コンピュータを人間に近づけるのは無駄だと。人間がコンピュータに近づいた方が手っ取り早いって。確かにその通りだなと、そういう考え方もありだな。事実そうなっているから。スマホっていう外部記憶装置を持つことで、人間はフォーマットを変えられたから。生活のフォーマットだけでなくて、意識のフォーマットも微妙に変化したから。間違いない。要するに人間がAI化されつつあるんですよ。ルーチン化されてるんだからさ。
山田:
少し話がずれるかもしれないんですが……僕は『AIの遺電子』を描く時に脳科学の本とかを結構読んだんですけれども、そうすると言い方は悪いんですが、「人間も機械だな」と思うことが多くて。やっぱり身体があり、脳があり、環境があり、それらが相互作用してはじめて意思が生まれているっていうか。意思って、自分で掌握してる、自分の中心のようなものだと感じがちだけど、結構ままならないものなんじゃないかと。
有名な話ですが、脳の活動に運動準備電位っていうのがあって、人間が「ボタンを押すぞ」って思うよりも前に、ボタンを押すための神経活動が始まってるって話があります。そういう話を聞くと、「自由意志って何だ?」って気分になるし、科学的に「人間」が明かされる中で、人間性を捉えなおさなくちゃいかんな、という思いが強くなりました。
押井:
結局AIを巡る物語は、最終的には、人間って何なんだ? という話にしかならないんですよね。だからさAI自体がドラマ的な扱いは人間のメタファーにしかなりえないっていう、実際にAIを作るのだったら別だけど、AIを巡るドラマというのは人間を巡るドラマにしか、最終的にはいかないっていう。
AIで人間が脅かされるとかね、人間が滅ぼされるとか『ターミネーター』とか、ハリウッド映画的な誇大妄想の世界はフィクションとして楽しむ分にはいいんだけどさ、あの人造人間に対する恐怖とか、コンピュータとかAIに対する恐怖って、もともと日本人には無いんだろうと思うんだよね。だから西洋的な文化の有り様なんだよ、きっと。人間中心主義であらざるを得なかった。人間をある意味、過大評価しないと成立しなかった。犬よりも猫よりも、ましてや機械よりも。
山田:
押井さんが『パトレイバー』や『攻殻機動隊』を作っていた時代に、日本のクリエイターがAIをどう捉えていたかっていうのは、興味があるんですよね。海外では『ターミネーター』をはじめ、AIが敵対する存在として描かれがちだったと感じてるんですが、『攻殻機動隊』とかはそういうアプローチとは違いますよね。
押井:
全然ベクトルが違いますね。ああいうのって、向こうの人は理解できないと思うよ。人間が作ったものは人間の道具ってね、それは人間以上のものになりえないっていうさ。要するに魂っていうやつなんだけど。逆に魂と言うものを認めちゃうと、じゃあ犬や猫に魂はあるのか? 植物にあるのか?
『攻殻機動隊』で一番問題になったのが、ゴーストってなんだ? という話でしょ。説明するのに本当に往生した。日本人ならたとえを持ち出すと、割りとピンとくるんだよね。「人形供養ってしますよね。」「なぜ人形供養をするんですか?」と、「慣れ親しんだ人形を燃えるゴミに出せないでしょう?」と言って、針供養から始まって人形供養に至るまでみんなそうなんですよ。犬を専門的に供養するお寺もあるからね。人間以外のものに、魂を認めるのか? という話になるの。日本人は、パソコンに名前をつけたがるとかもあるでしょ。
山田:
付喪神【※】の世界ですね。
※付喪神(つくもがみ)
長い年月を経て物や道具など器物に神や精霊などが宿ったもの。あるいはそうした物が化けた妖怪の類など。
押井:
物に何かが宿るっていう、割りと日本人はみんな受け入れやすい。向こうの人からすると、それは在ってはならないことなんだよね。人間の根拠が問われちゃうから。人間の魂は優勢じゃないのか?ってさ。実はゴーストは物にも道具にもあるんだよ。人間との関わりの中でゴーストっていうのはいわば意識されるものであってさ、だから人間と触れたことがない道具には宿らないと思うよって。潜在的には全てに眠っていてもおかしくないんだって、あらゆる生命体と一緒で。生命現象だけでなく無機物に宿ったっておかしくない。バトーのセリフじゃないけどさ、人形に魂・ゴーストが宿ったって不思議じゃないっていうさ。人間と関わっている限りね。
これ多分、永遠にわかんないと思う。要は一神教的な世界の人には、全然わかんない。
山田:
なるほど。