『save your dream』第5譜 金井恒太六段―高見泰地六段:第3期叡王戦 決勝七番勝負 第1局 観戦記
今期から新たにタイトル戦へと昇格し、34年ぶりの新棋戦となった「叡王戦」の決勝七番勝負が2018年4月14日より開幕。
本戦トーナメントを勝ち抜き、決勝七番勝負へ駒を進めたのは金井恒太六段と高見泰地六段。タイトル戦初挑戦となる棋士同士の対局ということでも注目を集めています。
ニコニコでは、金井恒太六段と高見泰地六段による決勝七番勝負の様子を、生放送および観戦記を通じてお届けします。
■前回までの観戦記
・第1局観戦記 『save your dream』第1譜
第3期叡王戦 決勝七番勝負 第1局観戦記『save your dream』第5譜
白鳥士郎
昼食休憩中に対局室に入った。
無人の対局室。ヒーターはつけられたままだ。
朝、出る時に閉じられていた対局室の襖は、一枚だけが取り外されていた。金井側からは庭の緑を見ることができるようになっている。
13時26分に髙見が入室。早くも前傾し、考える姿勢を取る。
その2分後、金井が入室した。
「時間になりました」
柵木三段がか細い声で宣言すると、髙見は小さく頷く。
そして間もなく端歩を突いた。
金井は手を膝の上で両手を組んで考えている。
ギリ……ギリ……。
そんな音がする。家鳴りだろうか?
金井が着手する。
髙見は扇子で扇ぎ始める。
金井の姿勢は朝と全く変わらないように見えるが、微かに座布団が前に出ている。血管が浮き出るほど強く手を組んでいた。
風が吹き、窓が揺れる。金井の視線が微かに上向く。
髙見は△7二銀を着手するとお茶を飲み、時計を見て、席を外す。
相手の姿が室内から消えると、金井は少し身じろぎした。しかし髙見が戻って来そうな物音がすると、▲3六歩を着手。
「指されました」
控室から戻ってきた髙見の手には、新しいお茶のペットボトルが握られていた。
着座すると、端歩を更に突き伸ばす。
金井はそれを見て『うん……うん……』というように何度も頷く。
ギリ……ギリ……。
再びその音がした。
私は驚いた。
それはおそらく、金井の歯軋りの音だった。
金井は全く動かないように見える……が、顎の筋肉だけはピクピクと動き続けている。
そして右の桂を跳ねた。引き絞った弓を放つように。
金井は銀の懐中時計を持って控室へと消えた。
金井が離席すると、明らかに室温が下がった。
金井が放っていた熱量の大きさに驚く。人間は考えることで、あれほどの熱を放つものなのかと、衝撃を受けた。
一人残された髙見は正座を崩すと、湯飲みに口を付け、中のお茶を飲もうとする。
その動作の途中で止まる。湯飲みに鼻を突っ込んだまま、考えている。
コップに水を入れようとして止まる。また考えている。動作の途中で思考が割り込むため、簡単な動きすら完遂できない。
記録係に尋ねた。
「この一手、何分くらい?」
「9分です」
金井が戻ってきた。銀時計を畳に置き、再び盤の前に座る。
わずか10分ほどの離席だったが、室内の空気はリセットされていた。
今度は髙見が桂を跳ねる番だった。△9三桂。そして離席。
金井は固まった。盤を見るが、まばたきが止まらない。
髙見は5分ほどで戻って来た。控室で目を癒してきたのか、持っていた目薬を盆の上に置く。
髙見は500mlのペットボトルを2本ほど飲みきっている。
一方、金井のペットボトルはほとんどそのままだ。
金井は▲6六銀を指した。
かすかに太鼓の音が聞こえてくる。城で何かイベントを行っているのだろう。
「髙見先生2時間使われました」
髙見は無言。水を飲む。
私は席を立ち、茶室を出た。入れ違いに、おやつの載った盆を運ぶスタッフが対局室に入っていった。
対局室にいた1時間30分は、一瞬のようにも永遠のようにも思えた。
記者室に戻ると、直後に少し大きな地震があった。
「えっ? 地震ですか!?」
運営スタッフが慌てている。対局室の様子を確認しているようだ。
幸い、特に被害はなかった。
私は佐々木に形勢を尋ねる。
「現時点では後手の髙見さんが手を作らないといけない状況です」
仲のよい髙見にとって不利な状況でも、佐々木は冷静に盤上を分析し、誠実に答えてくれる。
「歩切れ(持ち駒に歩がない状態)なので、先手の飛車が後手の陣形を突破する前に何とかしないといけません」
「感覚的に表現すると、どんな感じでしょうか?」
「後手の指し方が、少し突っ張ってる感じですね」
「佐々木先生が以前、髙見先生と指した将棋と比較して、どうですか?」
「練習将棋で研究したものとはぜんぜん別の将棋になっています」
「両対局者は今、どんな気持ちで戦っているのでしょうか?」
「気持ちまでは……ただ、読んで指しているだけです」
ニコニコ生放送では、豊島と室田が現局面の解説をしていた。
「金井さんの▲6六銀は格調高いですね。端は弱くなりますけど、中央の5七の地点を守っている。後手の桂馬が跳んできても受けられるんです」
豊島も、容易にどちらがいいかは断言しない。
「評価値は先手に触れてますけど、後手の手がわかりやすいので、実戦的には先手も難しいですよね」
「玉型が薄いので、すぐ逆転されそうですもんね」
室田の言葉に豊島は同意しつつ、
「局面が複雑化しているので。ソフトの評価値は、相当先まで正確に指した時のものなので。単純な局面なら人間も間違えないですけど、複雑な局面では」
豊島は過去のインタビューで、もう人間と研究会はしていないと語っている。
その理由を尋ねてみても、豊島の答えはふんわりしていた。「人間とは公式戦で指せるので……」「何となく、飽きてくるので……」豊島は答えを隠したり真意を濁したりするような人物ではない。本当に、そう思っているのだ。
人間ではなく、ソフトだけと将棋の研究をする。
私たちが異質に感じるような行為は、もしかしたらもう、若手棋士たちにとって普通のことなのかもしれない。盤上真理をとことん追究する純粋な心を持つがゆえに、若者たちは屈託なくソフトと正面から向き合えるのかもしれない。
記者室には豊島と同じようにソフトと向き合っている若者がいた。
千田翔太六段。
昨年の第2期叡王戦で決勝三番勝負に進出し、佐藤天彦名人と叡王の座を巡って激しく争った関西の若手棋士。
そんな千田は、自戦記においてもっと猛々しい決意を述べている。
――私は、普通の方法である程度強くなっても、あまり意味がないと思っている。先人の追従をして強くなっても、よい棋力向上法を発見するわけではない。
そして自戦記の最後をこう締め括った。
――現在のコンピューター将棋に勝てなくとも、挑まなくてどうするのか。
千田の行いは時に、ソフトを信奉し人間を軽視しているかのように語られることがある。
しかし名古屋まで人間同士の対局を勉強しにやって来ているのもまた、千田なのだ。
おやつから3時間近くが経過した。
ついに金井の飛車は後手陣に成り込んで竜と化す。髙見は3分間の小考の後、△4四歩。自分の飛車の横利きを止める手だ。
その間隙を突いて、金井は▲2四歩と垂らす。
戦車の後を歩兵が追いかけるような構図で、このままいけば髙見の左翼は金井に占拠されかねない。
髙見が△3七歩と打ち込んだところで夕食休憩になった。
大盤解説場では、山崎と豊島が、金井が▲3八の銀をどこに逃がすかを話題にしている。有力なのは▲2九銀。
局面を眺めた千田は「先手が何かいい手があればよさそうですねぇ」と、独特の調子で言う。
ソフトの評価値は先手有利の434。
「後手の△4四歩は弱気だったかもしれませんねぇ」
記者室は静かになってきた。
室内は独特の倦怠感に満ちている。疲れと、夜戦に備えての休息。
夕食休憩は30分間と短く、食事も軽食のみ。
急いで記者室に戻ってきた記録係の柵木が、サンドウィッチをハムスターのように口いっぱいに頬張っている。
いつ対局室に入ろう? 入るなら、休憩の間がいい。
私は慌てて荷物をまとめながら、隣の席の相崎に相談した。
「夕休からはずっと対局室にいようかと……まだ早いですか?」
「そうですねぇ。このままいくと、終局は10時近くになるかもしれませんから」
「疲れちゃいますかね? そもそも解説なしで盤面を見てても理解できませんし……ちょっと様子を見て、途中で出てきてもいいんでしょうか?」
「対局室を自由に出入りするのは観戦記者の権利ですから」
互角。ただ、先手が少しいいかもしれない。次の一手は▲2九銀。
そんな評価だけを叩き込んで、対局室に向かった。
そこで私は知ることになる。
対局中の棋士の孤独を。
タイトル戦の持つ魔力を。
叡王戦という『持ち時間が変わるタイトル戦』の、真の恐ろしさを。
(つづく)
第1局の観戦記は4月20日から26日まで、毎日17時に公開予定。
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