『攻殻機動隊』草薙素子役etc…”戦う女”を演じる声優・田中敦子が6年務めた会社を辞め声優を目指した意外なきっかけとは?【人生における3つの分岐点】
人気声優たちが辿ってきたターニング・ポイントを掘り下げる連載企画、人生における「3つの分岐点」。
第1回の大塚明夫さんを皮切りに、「今の自分を形成するうえで大きな影響を及ぼした人物や出来事」や「声優人生を変えてくれた作品やキャラクター」など、これまで数多くの人気声優たちの人生における分岐点に迫ってきた本シリーズも第13回を迎える。
今回お話をお聞きするのは、『攻殻機動隊』シリーズの草薙素子や『ベヨネッタ』シリーズのベヨネッタをはじめ、洋画作品においても、ニコール・キッドマンやケイト・ブランシェットなど数々の女優の吹き替えも担当している声優・田中敦子さん。
クールで、色っぽくて、かっこいい。そんな声質で数多くの役を演じてきた彼女の名前を聞いて、「戦う女」をイメージする方も少なくないのではないだろうか。
11月14日に誕生日を迎え、今年が人生の節目の年でもある田中さん。「一生続けていける仕事に」と声優の道を志してから30年以上が経った今、あらためてご自身の人生を振り返るなかで、
会社員から声優の道を目指すも、どの事務所も取り合ってくれなかったキャリアと年齢という現実
すべてが崖っぷちの思いで臨んだ養成所や事務所オーディション
辛く、きついこともあった声の仕事を30年以上続けられた理由
など、彼女の口から紡がれたのは、これまで演じられてきたキャラクターたちに負けず劣らず、かっこいい生き様であった。
その凛とした立ち振る舞いに、会議室が作戦司令室に感じられるほど。思わず「少佐」とお呼びしたくなるくらいにかっこいい田中さんであったが、江崎プロダクション(現・マウスプロモーション)に所属するきっかけとなったマウスプロモーション元社長・小野光枝さんとの1本の電話についてお話する際には、目が潤む場面も。
田中敦子さんの半生に迫るロングインタビュー、ぜひじっくり読み進めていただければ幸いだ。
分岐点1:大学生になって親元から離れて女子寮暮らし
──本日は「三つの分岐点」を挙げる形で、田中さんのこれまでの人生を振り返っていただければと思います。早速ですが、田中さんの人生において最初の分岐点(ターニング・ポイント)と呼べる出来事はなんでしょうか。
田中:
昨日からいろいろと考えていたんですけれど……大学生になって、親元から離れたのが最初の分岐なのかなと思います。
群馬県の前橋にある実家から横浜にある女子大の寮に入って、独り立ちとまではいかないですけれど、家族と初めて離れて生活するようになった。これはやはり、大きな変化を自分にもたらしました。
──実家から離れた大学に進学されたのには、何か理由が?
田中:
別に親元をどうしても離れたかったわけではないんです。中学から高校に上がるときに女子高を選んだら、「女子だけで過ごすって、なんて楽なんだろう!」と思ってしまって(笑)。
なので、大学も女子大ばかりをいくつも受けて、そのなかで受かったところに行こうくらいの気持ちでいたら、たまたまそうなったんです。
──なるほど。そうして居心地のいい環境を維持しつつ、親元を離れられたことで、どのような影響があったんでしょう。
田中:
私の両親は、厳しくはなかったけれど、進学して、就職して、結婚して……みたいな、生きかたを望んでいたんです。
私自身もそれをとくに窮屈と感じていたわけではないですけれど、それでもやはり、そうしたふたりの元を離れると、もっと自分の好きなことができるようになった感覚はありました。
それまでは、好きなお芝居を見るにしても電車で2時間かけて東京まで行かないとダメだったし、習いごともなかなかしづらかったのが、やりやすくなった。そういう意味での自由も手に入ったように感じたんです。
──活動の自由度が上がって、具体的にはどんなことに取り組まれたんですか?
田中:
中高時代から打ち込んでいた演劇を部活で続けつつ、ダンス、バレエといった踊りも習っていました。
寮だったのでそれほど遅くまで遊び歩くことはできなかったですけれど、大学生らしく恋愛にしても交友関係にしても毎日を楽しく過ごしていましたね。
──大学での寮生活……想像するだけでワクワクします。
田中:
寮では、10人くらいのグループで毎日のように誰かしらの部屋に集まっていましたね。
コーヒーカップ片手に、アイスクリームのパイントカップと何種類かのポテトチップスを囲んで、ユーミン(荒井由実、松任谷由実)だとか、オフコースだとか、流行の音楽をかけながら夜通しでおしゃべりをするような、そういう女子大生でした(笑)。
──うわー! 楽しそうです。学生生活の醍醐味が詰まっていますね!
田中:
ミッション系の大学だったので、朝になったらダイニングルームで賛美歌を歌ったり、お祈りをしてからご飯を食べたり。そんな2年間を過ごしました。
それまで前橋でずっと生活していたので、あまり他の都道府県出身の方たちと会う機会がなかったんですけど、大学の寮には幅広く、ほぼ全国から人が集まっていたのも楽しかったし、刺激を受けましたね。そのとき出会ったお友達とは今もやりとりがあります。
別世界に没入できる感覚に憧れて舞台に興味を持つ
──先ほど中学時代から演劇部に所属していたとお話がありましたが、そもそもお芝居に興味を持ったきっかけは何かあったのでしょうか。
田中:
テレビで舞台の中継を見て興味を持ったことがきっかけでした。
子供の頃の私は、お友達はいるし、みんなと楽しくもしていられるけれど、比較的内気なところがあったんです。それでおそらく、舞台のまったく別世界に没入できる感覚に憧れたんだと思いますね。
それともうひとつ、口の達者な女の子たちと会話したり、口げんかになったりすると、言葉に詰まってなかなか言いたい言葉がいえなくて、そういう自分があまり好きじゃなかったんです。別の自分になれたら、思っていることが表現できるかな……と。
そうした思いで、中学に入って部活を選ぶときに、演劇を実際に自分でもやってみたいと思うようになったんだと思います。
──自分ではない自分になりたい、役の姿を借りて自己表現したい、といった気持ちがあった。
田中:
そうですね。ありきたりといえばありきたりかもしれない(笑)。
──いえいえ! 大事で、切実な動機だと思います。ご覧になっていたお芝居はどんなものが多かったんですか?
田中:
父が好きだったこともあって、子供の頃から宝塚の劇場によく家族で行っていました。
大学に入ってからは、演劇部のお友達と、渡辺えり子(現在は「渡辺えり」として活動)さんの主催されていた「劇団3○○(さんじゅうまる)」を観に行ったり、あとは劇団四季のミュージカルを見に行ったりしていました。劇団四季ではアルバイトもしたことがあって、ときどき席が空いていると、バイトに観せてもらえたりするんですよね。
ほかにもいろいろですが、小劇場はそれほど行かず、大きな舞台が多かったです。有楽町あたりを行ったり来たりしていました。
──東京宝塚劇場や帝国劇場などがありますよね。大学時代、映像関係はいかがでしたか? 映画館通いをされたりだとか。
田中:
映画も観ていましたね。キャンパスからひと駅隣に当時は二本立ての映画館があったので、寮の友達とよく足を運んでました。
──その頃の映画館ですと二本立てですし、入れ替え制もありませんし、映画の世界にどっぷり浸りたい人にはいい時代ですよね。
田中:
そうなんです。それにしても体力がありましたね、あの頃は(笑)。
──映画やテレビドラマの俳優を目指そうとは思われなかったのでしょうか?
田中:
家族でも映画をよく観ていましたし、母がドラマ好きで、その影響もあって松竹、東宝、東映系の、当時の大女優さんの名前はみんな言える……みたいな感じではあったんです。
今でもですけど、当時の三田佳子さん、佐久間良子さん、岩下志麻さんといった錚々(そうそう)たる女優さんたちへの憧れはありました。大船の松竹撮影所が近かったので夏休みに演劇部仲間とエキストラのアルバイトをしていて、岩下志麻さんをお見かけした時はテンションが上がりました。
大学の演劇部の中には、他大学の映画研究会に役者として参加して、映像で表現することを考えていた人もいました。でも当時の私は、映像で演じることにあまり興味はなかったんです。
──もちろん映画をご覧になるのはお好きでありつつ、ご自身で演じるのは舞台のほうに興味があったんですね。
田中:
そういえば……。
──どうされました?
田中:
少し前にふと思い出したことがあるんです。
こうした場で初めて話すんですけど、じつは大学時代に学園祭で、タレント事務所のスカウトの女性の方が興味を持ってくださって声をかけていただいたことがあって。すごく熱心に何回も訪ねてきてくださったり、電話をくださっていたんですよ。でも当時の私はタレント活動に全然興味がなくて、ひたすらお断りするだけだったんですが。
──スカウトされるということは、当時から何かただならぬオーラをお持ちだったんでしょうね。
田中:
いやいや、そんなことはないと思います。当時は女子大生のタレントさんや女優さんが流行った時期だったのもあるんじゃないかなと。
大学の同級生には、当時人気があった『オールナイトフジ』に出て「また今夜〜」とやっていた子もいて(笑)。
──ああ、そうか。女子大生ブームの時代なんですね。
田中:
そうなんです。私は今選んだ道が自分にとってはいちばん良かったと思っていますし、そのとき行っていれば良かったなとは微塵も思っていないですけれど、もし「よろしくお願いします!」と答えていたら、どういう人生になっていたのかのぞき見してみたい気持ちはありますね(笑)。
分岐点2:一生続けていける仕事に就きたいと会社員から声優の道へ
──そんな楽しくも実りのある大学生活を過ごされていった田中さんですが、続く第二の分岐点はどのタイミングでしょうか?
田中:
大学を卒業して会社員になってから、声優としての第一歩を踏み出し、養成所に通いながら少しずつお仕事をいただくようになり、そして声優の仕事が増えるにつれてだんだんとスイッチして行って、それまで勤めていた会社を辞めた……その一連の流れが、分岐点かなと思います。
──はっきりとこの瞬間というより、「会社員から声優になった」一連の流れが分岐点だと。会社員に一度なられた理由はお聞きしてもいいですか?
田中:
大学を卒業したタイミングで、「演劇や踊りはそろそろ卒業してもいいのかな?」と思いまして、父の薦めもあって企業に就職をしました。
会社には6年ほど勤めました。仕事内容にもやりがいを感じながら、それなりに充実した日々を過ごしていましたね。
──それが転職を決意されたのは、なぜですか?
田中:
当時はまだ、結婚したら会社を辞める方が多い時代だったんです。いわゆる「寿退社」が主流の時代で、このまま行けば自分もそのうち結婚をして、仕事を辞めて、家庭に入る流れになる。そんな人生は、ちょっと違うような気がしたんです。
だからまず考えたのは、「声優になりたい」ではなく、「転職をしたい」だったんです。一生続けていける仕事に、あらためて就き直したかった。
そこで「一生仕事を続けていけるモチベーションって、なんだろう?」と考えていったら、好きなことを続けていくのが一番じゃないかと考えるにいたったんです。それは私にとっては、「お芝居」と「ダンス」だと。
──学生時代に打ち込んだふたつのこと。そこで前者を選ばれた。
田中:
ダンスは会社員時代に本格的に舞台に立ったりして、やりきった気持ちがどこかにあったんです。でもお芝居のほうは、まだまだ勉強したいこともあるし、仕事にできるならしてみたいな、と。
──そこで舞台ではなく、声のお芝居の道を検討されたのはどうしてですか?
田中:
お芝居を仕事にしようと考えたものの、やっぱり二十代の真ん中を過ぎてから劇団に所属しようとするのは、ちょっと遅いのかな? と思ったんです。
舞台人を目指す方たちの多くは、高校を卒業してすぐに専門学校や劇団の養成所、もしくは芸術関係の大学で学ばれています。そういう方々との溝を、どうやって埋めたらいいのか、演劇を仕事に結びつける道を模索しました。
──なるほど。
田中:
そんなとき、たまたまダンサー仲間に、薔薇座という野沢那智さんの劇団の方がいらして、声のお仕事もされてらっしゃったんですよね。声のお仕事と聞いて、吹き替えの仕事に一種のひらめきを感じました。
──それ以前には、吹き替えのお仕事をどう意識されていたのでしょう?
田中:
そうですね。中学生くらいまでは、テレビでやっている吹き替え映画を観ても、「外国の方が日本語を上手に話すなあ……」って、冗談ではなく、そういう感覚でいたんですけど(笑)。
──(笑)。
田中:
そこからだんだんと吹き替えの文化がわかってくるにつれて、舞台とはまた違う奥行きや深さに気付いていきました。けれどもそのときまで、自分が演じることとは繋がっていなかったんです。
でもあらためてお芝居の道に進むことを考え始めたとき、「声優になれば、吹き替えという仕事を通じて、小さいころから家族と観て、感動してきた作品の中に、自分が入れるのかも……」とインスピレーションが湧いたんです。それができたら、最高だなと。
──それこそ一生続けていけるお仕事じゃないかと。
田中:
ただ、当時の私は学生演劇をやっていたくらいで、演劇人として素人じゃないですか。薔薇座の友人に相談をしてみたものの、すぐに声優プロダクションに紹介してもらうことは難しくて、まずはどこかで勉強してみることを薦められたんです。
彼女に東京アナウンスアカデミーの声優科を紹介されて、まずは夏期講座を受講しました。そこが声優としての入口でした。
──会社員として働きながら声優科に通ったということですか?
田中:
はい。その後、昼間は会社で働き続けながら、土日や夜間のクラスに通ううちに、今所属しているマウスプロモーションの前身にあたる江崎プロダクションの養成所に入ることができたんです。
まだまだひよこですけど、ようやく声優としての第一歩を踏み出せた気持ちでしたね。養成所時代から、お仕事を徐々にもらえるようになっていきました。
江崎プロに所属するきっかけとなった小野光枝さんとの1本の電話
──声優事務所には「ナレーションの仕事が多い」「吹き替えの仕事が多い」「アニメの仕事が多い」といった傾向があります。江崎プロは吹き替えに強い事務所ですが、所属先を選ぶ際には、やはりその点を意識しておられたのでしょうか?
田中:
そこはいくつかご縁が重なったところもあって。
私が東京アナウンスアカデミーに通い始めた頃に、主だった声優事務所と、そこに所属されているタレントさん、声優さんのお名前が書かれた資料をいただいたんです。
その中に江崎プロの名前もあって、所属タレントとして二階堂有希子さんのお名前が書かれていたのが、目に止まったんです。
──短期間ですが、二階堂さんが江崎プロに所属されていた時期がありましたね。そのタイミングで、たまたま目にされた。ひとつ目の「ご縁」ですね。二階堂さんのお名前はやはり吹き替えで意識を?
田中:
それが、私、アニメは子供の頃に観ていただけで、いわゆるアニメファンではなかったんです。でも、緑のジャケットを着ているルパンが登場する、『ルパン三世』の第1シーズンは大好きだったんですね。そこで峰不二子役を演じていた二階堂さんのお芝居と声が大好きで、初めて声優さんのお名前を意識したんです。
あの頃にない大人っぽいアニメで、夕方の再放送を繰り返し観ていて、「峰不二子って悪女なのになんてコケティッシュでチャーミングで素敵なんだろう!」って、ずっと感じていました。それこそ、私がなりたくてもなれない大胆な女性がそこにいました。
二階堂さんのあとに長年演じられた増山江威子さんの不二子ももちろん大好きで、『ルパン三世 ルパン暗殺指令』にヒロインとして出演させていただいた際、直接「ファンです」とお伝えしたくらいです(笑)。
──それはもう、いわゆる「ガチ」なファンじゃないですか(笑)。
田中:
私の中では二階堂さんのお名前の印象は鮮烈で、「峰不二子の声優さんがいる事務所」として江崎プロの名前が刷り込まれたんです。
あとは……やはり、マウスプロモーションの元社長である小野光枝さんの存在が大きかったと思います。
──所属される以前に接点が?
田中:
いざ声優事務所の養成所を受けようと思ったときに、どこに行ったらいいのかなんて、業界のことをまったく知らない人間にはわからないですよね?
──そういう情報は外の人間にはなかなか入ってきませんよね。
田中:
だからまだ会社員だった頃、夕方の人がいなくなった会議室で、片っ端から大手の事務所に電話をかけたんですよ。でもみんな門前払いというか、まったく取り合ってもらえなかった。当然ですよね。キャリアもないし。
それで何社もダメで、「だよな……」と現実を感じながら江崎プロに電話をかけたとき、当時マネージャーだった小野さんが電話をとったんです。彼女は毎日外を飛び回っていてほとんど事務所にはいないですし、電話を取ることもめったにないはずなんですけど、たまたまその日はそうだった。
──すごい偶然です。
田中:
それで「今こういう勉強をしていて、養成所に入りたいと考えているんですけど……」と問い合わせをしたら、真面目に、きちっと話を聞いてくれて。
「でもあなた、会社にも勤めているんでしょう? 声優の仕事もとても厳しい世界だし、養成所も通うにしても、会社との兼ね合いもあるだろうし、両立していくのは大変だと思う。雨の日も風の日も嵐の日も通うことができるかどうか、もう一回自分で考えてみて、そういう自信が本当にあるんだったら、来年の春に養成所のオーディションを受けにいらっしゃい」と言ってくれたんです。
こういう人がいる事務所だったら、私、やっていけるかもしれない……と、そのときに思えました。で、翌春にオーディションを受けて、養成所に通い始めたんです。
──グッと来てしまいますね……。
田中:
いろんな偶然というか、巡り合わせがありますね。
──養成所に入ったあと、そのときのお話はされたんですか?
田中:
しばらく経ってやっとお目にかかれる機会がありましたので。でも、小野さんはサバサバした性格なので、「これから頑張りなさいよ!」「しっかりやりなさいよ!」みたいな、そんな励ましだったと思います。