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「性風俗」を語りませんか? 遊郭、ちょんの間etc..「花街の歴史」を貴重な写真とともに振り返る【性風俗シリーズ第1弾】

東京23区のほとんどに遊郭は存在していた

中田:
 日本全国至るところに、花街、遊郭街が存在していた。東京23区だけで、実に21区に花街が存在したんですよ。

ニポポ:
 すごい。このなかった2区が逆に知りたい。

中田:
 まずひとつは「練馬区」ですね。

ニポポ:
 あ、練馬ないんですね。

中田:
 当時の練馬区は、田園が広がる町だった。

 その中で、戦争の末期に東京で問題になったのが、し尿処理なんですよ。排泄物ですね。これをどうしたのかというと、今の西武池袋線、当時西武農業鉄道という名前の鉄道で、東京の糞便、し尿を練馬に運んでいたんです。

ニポポ:
 東京じゅうのし尿が練馬にやってくるわけですね。

中田:
 だから、西武鉄道は、それでグループの礎を築いたという。だから当時、西武農業鉄道は、黄金電車とか、糞尿電車とか呼ばれていた。

ニポポ:
 ひどい言われよう(笑)。

中田:
 そういうことで、練馬というのはし尿を捨てるような田園だった。まあ、それは田畑の肥やしにもなっていたんですけど。

ニポポ:
 ちゃんとした肥料ですからね。

中田:
 花街ができる環境ではなかった。

 そして、もう一区は「杉並区」です。

ニポポ:
 その理由は。

中田:
 基本的に、杉並区は商業地と住宅街として発展していったんですね。そのルーツとしては、関東大震災で東京中心部が住めなくなって、郊外に人が出て行ってしまうんです。その時に、杉並に人が集まってきちゃうんですよね。だから、そこは花街ではなく、人が住む住宅街としての発展をしていったという。

ニポポ:
 なるほど。要はベッドタウンだったということなんですね。

中田:
 そんな感じですね。だから、お店もいっぱいあったし、家もありましたけれども、本当に住むための場所で、花街的なものはなかった。

 逆に言えば、練馬と杉並以外の区全部には花街があったんですよ。東京だけでもその調子ですから、日本全国遊郭だらけ。

ニポポ:
 えらい数あったんでしょうね。遊郭の最盛期というのはいつ頃になるんですかね?

中田:
 明治に入ってからです。明治に入ると、富国強兵や殖産興業の勃興があり、これが売春と深く結びつくんですね。

ニポポ:
 密接につながっていくわけですね。

中田:
 どういうことかというと、いわゆる兵隊さんへの「慰み者」という部分と、あとは、労働者、殖産興業というのは、日本の基幹産業ですよね。これが、鉄道だったり、鉄鋼だったり、生糸だったり、あとは開拓だったり。こういった国の政策に、男たちの激しい労働があった。

 そこに、女性たちも必要とされていたんですね。

病気は「湯治」で治そうとしていた

ニポポ:
 コメントにもあったのですが、「性病」については、当時どのような認識だったのでしょうか。

中田:
 性病には、いわゆる「淋病」や「梅毒」などがありますが、率直に言うと「治らない」ものなんです。けれども、昔は「温泉で梅毒が治る」と信じられていました。

ニポポ:
 ほお。湯治ですね。

中田:
 そう。草津温泉で。そこに梅毒患者が集中してくる、という。

ニポポ:
 病気が移りそう。

中田:
 ハンセン病とか、梅毒というのを湯治で治せると、昔は信じられていたんだけれども、治るわけもなく。そういう時代があったということですよね。だから、花柳病と言われる性病は、治らなかったんですよね。

ニポポ:
 となると、そうやって発覚した人は、排除していくという方向の管理を。

中田:
 伝染病ですからね。なので、梅毒になったら社会から排除されていくと。悲しい時代があった。

ニポポ:
 そうですね。

中田:
 また、江戸末期ぐらいでデータが取れているんですけども、例えば当時ですと、コレラ、ジフテリアなどの感染症で死亡する人。これを合わせた数と、いわゆる性病で死ぬ人の数が、ほぼ一緒ぐらいだった。

ニポポ:
 それぐらい、一大勢力だったんですね。

中田:
 相当な死者が出ました。だから、性病の蔓延というのは大変な問題でした。

遊郭街を決める基準

ニポポ:
 あと、気になるのが、私娼さんたちを一ヶ所に集めちゃおうという、場所選びですよね。これはどういった経緯で選ばれていったのかなというのが気になるんですけれども。

中田:
 例えば吉原の場合は、今は東京都台東区の千束4丁目という所ですけれども、元々そこは、新吉原という所なんですよね。元々の吉原の発祥って、今の人形町のあたりなんですよ。

ニポポ:
 そうなんですね。

中田:
 これは、江戸の大火で焼失してしまって、今の千束4丁目あたりに、新吉原ができるんですね。

 また、基本的には、港があるところとか、いわゆる労働に近い場所ですね。

ニポポ:
 やっぱりそうなっていくんですね。

中田:
 つまり、人が集まる場所に、いわゆる娯楽施設としての遊郭ができるわけですから、そこには、やっぱり働く男たちがいる。富が集中している。そこに、貧しい悲しい女たちが集まってくる。こういう構図ですね。

ニポポ:
 なるほど。

中田:
 それが、ほぼ日本全国ですね。日本の国土って、ほぼ海に面しています。だから、ほとんどの都道府県に港がある。

 昔は、北前船とか物流の要が船でしたからね。そこに荷物が来て、人が来て、男たちが働くわけですよね。そこに女性も必要とされると。

ニポポ:
 なるほど。僕、今のでちょっと思い出したんですけど、広島、内海の方の港で、船を中に入れるような売春宿があったんですよね。今はほとんど潰れちゃたんですけど。

ニポポ:
 そこの広島の所は、そのためだけに建築技術のエリートがいっぱい集められてきて、当時の木造なのに5階建てという建物が結構あったりして、そこのお部屋でプレイがされていたりとか。あとは、海が荒れちゃったら、待たなきゃいけないじゃないですか? そのときに待っている船に横付けして、ちょっとプレイを楽しむみたいな、そういったサービスがあったなんて聞きましたけれどもね。

中田:
 日本の場合、三重県の渡鹿野島とか、志摩半島の島々は、島が丸ごと売春をやっていましたからね。いろんな変わった場所があって。北海道で言うと江差ですね。日本全国津々浦々、売春、遊郭、どこにでもあったんですね。

 日本の三大遊郭が、大阪、京都、東京の吉原で、京都は、島原遊郭、大阪は新町遊郭という名前でして、これが、日本の三大遊郭と言われていたんです。

ニポポ:
 なるほど。これは、管理というのは、当時の自治体みたいなものが、やっていたんですか?

中田:
 これは、時の為政者、つまり政府がやっているわけですね。これが管理するという具合で。ですから、港ですとか、飯場(はんば)ですとか。

 あとは、江戸の話ですけど、宿場町とか、旅籠屋(はたごや)とかできて、旅人の往来ができるわけですよね。そこに、いわゆる料理屋さんがあるわけですけど、そこに当時は、「下女」と呼ばれる、いわゆるウエイトレスさんがいたのですが、その女性たちがお客さんを取り始めちゃうわけですよね。旅籠屋の激化で、旅人が遊べると、そういうことで。

 街道沿いの品川宿とか、板橋宿とか、そこに、遊女屋が集まる区域、いわゆる巨大な「花街」が形成されていく。

ニポポ:
 なるほどね。今、コメントにもあったのですが、やっぱり遊郭にギャンブルというのは隣接されていたりしたんですか?

中田:
 それは博徒系と言われる、いわゆる「任侠」が、賭場も開くというようなこともあった。ま、エンターテインメントですよね。

ニポポ:
 なるほど。そういった任侠の方々が、商売の女の子たちを管理されていたんですかね?

中田:
 管理というか、完全な人身売買の世界ですからね。

ニポポ:
 なるほど。それで働けってやっちゃうんですね。

中田:
 だから、当時は、いわゆる飯盛り女という呼び方があったりとか、あとは温泉地だったら、浴衣女とか、湯女という言い方をしたりしていました。例えば、石川県の加賀温泉郷ですと、温泉地は、昔は、湯治客の浴衣を持った女の子を連れて、外湯に向かうという風習があって。そういった女の子たちは“シシ”と呼ばれていたんですよ。

ニポポ:
 シシ? どういう漢字なんですかね?

中田:
 これは、昭和に入ってからの呼び名なんですけども、「シシジュウロク(四四一六)」なんですよね。つまり、16歳。

ニポポ:
 数えで16になると。なるほど。

中田:
 だから、「夜中にシシが出る」とか「シシも打たずに空戻り」とか、山中温泉では、そういうふうに謳われているわけですよね。

ニポポ:
 なるほど、そういう隠語みたいなものが。

中田:
 ただ、この間、結婚は男女ともに18歳に引き上げられましたけど、女性の場合、旧民法では16歳でOKでしたからね。

ニポポ:
 そうですね。女の子だけシシのままだったんですよね。

中田:
 そうそう。16歳で結婚可能ということは、16歳に欲情する男がいても不思議じゃないということですよね。

ニポポ:
 そうか、それを肯定してますからね。

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