「今のポケモンが在るのは岩田さんのおかげだ」…『ポケモン』シリーズを支え続けた任天堂・岩田聡元社長の数々の偉業に涙が止まらない
今回紹介するのは、しばけんさんが投稿した『【任天堂岩田社長・三回忌】ポケットモンスター編【ゆっくり解説】』という動画。再生数は5万回を超え、「ニコニコ動画講座」カテゴリランキングで最高で1位を記録しました。
音声読み上げソフトを使用して、霧雨魔理沙(きりさめ まりさ)と博麗霊夢(はくれい れいむ)のふたりのキャラクターが、ロールプレイングゲーム『ポケットモンスター』シリーズと、その開発を支えてきた、任天堂株式会社の元社長・岩田聡氏について、画像を交えつつ解説を行います。
【【任天堂岩田社長・三回忌】ポケットモンスター編【ゆっくり解説】】
ゲームボーイのメガヒット作『ポケモン』誕生
魔理沙:
1996年2月27日、『ポケットモンスター赤・緑』がゲームボーイから発売されました。この『ポケモン』の開発は、1990年頃から開始されていましたが、初めてのRPG制作ということもあり、開発は非常に難航していました。しかも、この頃はゲームボーイが発売された1989年4月からかなり年数も経っており、「もうゲームボーイは終わったんじゃないか……」という空気も流れていた時代でした。
魔理沙:
当時、岩田氏は、ポケモンを制作していた会社であるクリーチャーズの立ち上げに関わり、役員もしていて、ポケモン赤・緑の初回出荷数が決まった時にも、現・株式会社ポケモン社長の石原恒和氏の隣で、そのやりとりを聞いていました。完成まで6年もかけた渾身の作品であった、ポケモン赤・緑の初回出荷数は、合計約23万本と、想定以上に少なかったそうです。それでも、関わっていた人たちは「逆に最初は飛ぶように売れて、すぐに在庫がなくなるんじゃないか」と期待していました。
けれど、残念ながら、ポケモンは発売当初、週間の販売ランキングのベスト10にギリギリ入るか入らないかぐらいの、本当に静かなスタートでした。
霊夢:
今では本当に信じられませんね。
魔理沙:
ただ、その面白さは、口コミでどんどん伝わっていきました。さらに『コロコロコミック』を中心としたメディアが人気を加速させていき、売上はどんどん増えていきました。そして、週間の販売ランキング1位になったのは、発売してから1年半以上経った後でした。
魔理沙:
そして、最終的に初代ポケモンは、国内だけで、赤・緑が約822万本、青が約201万本、ピカチュウが約316万本と、合計約1,339万本を売り上げています。霊夢:
国内だけで……凄すぎる。
激動の海外展開
魔理沙:
大ヒット後の1998年頃に、ゲームフリークが赤・緑の次回作となる『ポケットモンスター金・銀』の制作に移っていた時期に、任天堂の山内溥(ひろし)元社長が、鶴の一声で「ポケモンの赤・緑をアメリカに出せ」と言いました。ただ、山内元社長は、その海外展開の至上命令を出す一方で、「次回作であるポケモン金銀も早く作れ」という指示も出していました。
霊夢:
同時に両方?
魔理沙:
はい。ポケモン金・銀は、元々発売時期を、1997年の年末に予定していました。しかし、制作が大幅に遅れて、発売延期を重ねて、お詫び文を出したりしており、待っているファンたちからも「本当に発売されるのか?」と疑われるほどでした。ゲームフリークの人たちは、ポケモン金・銀の制作で猛烈に忙しい時で、それどころではなかったため、海外展開は「夢のような話だ」と匙を投げていました。
霊夢:
残念だけれど、仕方ない。魔理沙:
ただ、そんな中で手を挙げた人物がいました。
『ポケモン』を世界へつないだ人物・岩田聡氏
魔理沙:
その人は、当時、株式会社ハル研究所の社長だった岩田聡氏でした。岩田氏は、当時、任天堂の人でもなかったのに、なぜか任天堂と、ポケモンの石原氏の間を取り持つようなことをしていました。この時、岩田氏は、国内版ポケモン赤・緑を海外版へ作り変えるローカライズの仕事について、「山内社長がやれと言うならやるしかないよね」と石原氏と話し合い、そして、岩田氏は「ゲームフリークさんは金・銀に専念してください。赤・緑は私が、仕様や構造を一切聞かずにローカライズします」と言いました。
霊夢:
かっこいい! それで、岩田氏はどんな作業をしたんですか?魔理沙:
まず、岩田氏はポケモン赤・緑のソースコードを預かり、ひとりで全部読んで解析し、どうやって海外版に移せばよいか、という方針を立てました。そして、解析した内容に基づき、実際に作業を行ったのが、任天堂のエンジニアの方でした。
魔理沙:
こうして、ポケモン赤・緑はアメリカで、1998年9月28日に発売。全世界で、合計約4,601万本を売り上げ、世界的な人気になりました。霊夢:
ケタ違いの本数ですね。