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「日本はアメリカにNOと言えない主権国家である」アメリカの自由出撃を許さない軍事同盟から取り残された日本に『国防』ができるのか【話者:伊勢崎賢治】

 コスタリカから私たちは何を学ぶことができるか?
 日本はどのようなビジョンを持って、平和を築いていくのか?
 そもそもあるべき「日本の国防のかたち」とは?

 5名の有識者が”国防”について各々の意見を展開する番組『日本国防論~宮台・白井・伊勢崎・孫崎・伊藤インタビュー集~』がニコニコで配信された。

 1948年に軍隊を廃止したコスタリカは、軍事予算をゼロにしたことで、教育や医療や環境に予算を充て、国民の幸福度を最大化する道を選びました。独自の安全保障体制で平和国家を構築したコスタリカに、私たちが学べることは何なのか。

 そして、「日本の国防のかたち」とは、どうあるべきなのか。元NGO・国連職員である伊勢崎賢治氏へ、日本が目指すべき「国防」のかたちについてインタビューを実施しました。

コスタリカが平和国家を構築するまでの軌跡を描いたドキュメンタリー映画『コスタリカの奇跡~積極的平和国家のつくり方~』
(画像はAmazonより)

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コスタリカは「軍隊を完全に否定した」のか

伊勢崎賢治氏。

伊勢崎:
 この映画は、コスタリカが軍隊という概念を捨てた立憲過程を描いたものです。コスタリカが新しい建国で目指したものを歴史的に検証した。日本国憲法についても、そういう記録映画がたくさんあります。立憲の精神。でも、長い年月を経てた「現実」はどうか? これも我々日本人がよく話題にします。

 コスタリカの今、現実の姿はどうかというと、立憲当時には想定できなかった安全保障の環境に対応するために、「軍隊を完全否定」というイメージとは少し違ってきています。これは、憲法と現実に乖離があるじゃないかとコスタリカを非難しているわけではなくて、そういうものなのです。日本でも、どこでもそうですが、国家が新しい体制に変わる時、その象徴としての憲法の制定は、常に、“急いて”行われ、後になって修正が必要となるものものですから。

 最初に、そのコスタリカ憲法を、もう少し注意深く見て見ましょう。僕はスペイン語ができないので、比較憲法Comparative Constitutions Projectsの関連サイトの英訳から引用します。

 コスタリカ憲法は、1949年の制定以来、20回以上も改正されています。何と言っても一番有名なのが、憲法第12条。

Article 12


The Army as a permanent institution is proscribed.
For the vigilance and conservation of the public order, there will be the necessary forces of police.
Military forces may only be organized by a continental agreement or for the national defense; one and the other will always be subordinate to the civil power: they may not deliberate, or make manifestations or declarations in an individual or collective form.

 冒頭で、“permanent institution”恒久な機関としての“Army”(陸軍?軍隊?)を持たない、と。でも、次で、公共秩序と警戒のために警察“forces”組織は持つ、と。

 次が面白い。“Military forces.”つまり軍事組織、軍隊ですね。これを、常備しないけど必要であれば創設する、としている。その必要性とはどういう時かというと、まず“continental agreement.”コスタリカのあるラテンアメリカにも、ヨーロッパのEUやNATOみたいな地域の国家共同体があります。その地域で安全保障上の必要性が起こり、みんなでやろうと取り決めがあれば、軍事組織を持てるとしている。

 これ、日本の議論でいうと、「集団的自衛権」です。(厳密に言うと、国連憲章第8章で地域の共同体に国連安保理の許可制で認められている集団安全保障ですが)

 もう一つの必要性とは、“the national defense”つまり、個別的自衛権です。つまり、コスタリカは、常備はしないけれど、個別的自衛権と集団的自衛権を行使する必要性があれば、軍隊をつくるのです 。日本人は、まずここを理解するべきです。

 そして、憲法第18条が大事です。

Article 18
The Costa Ricans must observe the Constitution and the laws, serve the Fatherland [Patria], defend it and contribute to the public expenses.

 コスタリカ国民が果たすべき義務として、憲法と法律を守る、祖国に奉仕し、税金を納めることと共に、祖国を“defend”、防衛すること挙げている。そうです。コスタリカ憲法は「徴兵制」を認めています。

 そして、コスタリカ憲法は、それを常備軍と呼ばないだけで、必要に応じて招集される“public force”民衆軍の設立と運用を詳細に定めています。

 それが必要になった時、その民衆軍を慌ててゼロからつくるのか?というと、それは現実的ではないのですね。突発する事態に対応するには、平時の準備が必要です。永世中立国スイスのように武器携帯も含めて民間防衛の体制、もしくは何かコアとなる組織をやっぱり「常備」しておかなければならない。ということで、コスタリカ憲法でいう「民衆軍」が“常備”されています。

 “Special Intervention Unit”という特殊部隊まであります。アメリカ軍が主催する合同軍事訓練にも参加。狙撃部隊と戦闘部隊は、周辺国の軍隊と遜色ない成績を対戦ゲームで修めています。その構成員には、ちゃんとしたヒエラルキーのランクがあり、警察のものではなく、将軍とか中佐、大佐とか、軍隊のそれです。

 こうなると、コスタリカ憲法が完全に否定する常備軍の「常備」って何?という疑問が起きると思いますが、僕はコスタリカ政府と国連が共同で創設した国連平和大学“University for Peace”でここ10年間ほど客員教員をやっていて当地も訪問していますので、このいい加減にも見える「曖昧さ」が理解できます。

 コスタリカは隣国ニカラグアと武力衝突を繰り返してきた国境紛争を抱えていますし、加えて、中南米諸国そしてアメリカが「戦争」と捉えている麻薬カルテル対策のために米軍の駐留を認めています。麻薬は一般市民の中に巣食う悪ですが、国境を超えて凶悪化する。こういった現在進行形の脅威に対応するために、「警察と軍隊という概念の限りなき接近」、もしくは一体化が起きている。コスタリカの憲法と現実の曖昧さは、こう説明するのが一番いいと思います。

 国際社会から見たら常備軍なのだけれど憲法では常備軍を否定している。これって、国際法的には自衛隊は戦力なのだけれど憲法的には戦力じゃない、という理屈の日本と似ているかもしれません。しかし、だからといって日本もコスタリカのように「曖昧」を正当化できる、というふうに考えてはいけません。後で説明するように、「コスタリカでさえ絶対にやらない日本の曖昧」があるのです。

 その「曖昧」の結果、コスタリカは自分の軍隊を“小規模なもの”に抑えていることに成功しているようです。これがコスタリカ憲法の本音だと思います。だって、コスタリカをはじめこの辺の国々は軍事クーデターの暗い歴史を経ているからです。だから、クーデターを起こせるようなデカイ軍隊をつくりたくない。特に、そういった軍事的反乱の主力となる陸軍“Army”ですね。だから第12条では、これを強調しているのでしょう。

 常備軍を完全否定するも軍事組織を否定しないコスタリカ憲法は、コアの常備軍を持つも、小規模なものに抑えている。日本人は、憲法が国民一人一人に国防の義務を課すコスタリカを、こう理解するべきであり、コスタリカから何を学ぶべきか慎重に吟味するべきです。

コスタリカが絶対に「曖昧」にしないこと

 曖昧さで日本の九条と似ているコスタリカ憲法だけど、コスタリカが絶対にしない日本の曖昧さとは何か。

 コスタリカ憲法の想定通り、コスタリカに国防上の脅威が発生、もしくはコスタリカが属する米州機構“Organization of American States”が集団的自衛権を発動した時、憲法に従ってコスタリカは軍事組織をつくるわけですが、それは既に“常備”している民衆軍と特殊部隊などをコアに編成されてゆくでしょう。

 そして、それが実際に、脅威つまり敵と“engage”エンゲージ、つまり交戦したら?

 交戦中には、当然、間違いが起きる。誤爆、誤射、そして一般の刑法が管轄するものよりはるかに規模が大きい軍事過失です。

 「交戦」というと、日本人は9条2項の「交戦権」、交戦する「権利」のようなイメージが先に立ちますが、実は違います。交戦とは、交戦中に間違いを犯さないという国家の「義務」なのです。そういう間違いが、いわゆる戦争犯罪“war crime”です。

 そういう交戦中に犯してはいけない戦争犯罪とは何か?ということを、ルールとして人類が合意してきた歴史が、戦時国際法、今でいう「国際人道法」です。ハーグ条約やジュネーブ条約ですね。やっちゃいけない殺傷と破壊とは何か。病院への攻撃や、民間人を多く傷付ける行為を禁じています。原子力関連施設への攻撃もダメです。

 そして、どういう武器を使ってはいけないか。対人地雷禁止などは最近の例ですが、現在の課題は、核兵器やロボット兵器をどう規制するかです。このように、交戦のルールは、未来永劫、非戦を最終目標として、慣習的に集積され続けているのです。

 一方で、人類は世界政府を持ち得ていません。世界で起こる戦争犯罪を、ただ人権という一つの共通概念から強制力をもって裁き、罰する仕組みをまだ持ちあわせていないのです。だから、この慣習法としての戦時国際法は、何が戦争犯罪かを合意するだけです。戦争犯罪を罰するのは、それを批准する各々の主権国家に託されているわけです。ちゃんとした国内の法整備でもって。

 この責任を行使しうる能力が、国際政治においては「主権」と見なされます。当たり前ですが、ただ単に「戦争をしません」という自分に向けたオマジナイだけで、その責任能力を発揮したとは、見なされません。

 コスタリカは、日本のようにオマジナイではなく、まさしくその主権を発揮しているのです。

 これは、戦争犯罪の立件機関である国際刑事裁判所のローマ議定書の世界各国の批准とそれに対応する国内法の立法状況を調査するためにイギリスに設立されたCJADから引用したコスタリカの状況です。

 戦争犯罪と人道に対する罪の訴追に関する法律として、

Law No. 8272 Criminal Prosecution to Punish War Crimes and Crimes Against Humanity 2002

“Article 378. War Crimes. A prison term of between ten and twenty-five years shall be applied to anyone who, in the course of an armed conflict, commits or orders the commission of acts recognised as grave violations or war crimes by international treaties to which Costa Rica is party – where these treaties relate to participation in hostilities; the protection of the sick, wounded and shipwrecked; the treatment of prisoners of war; and the protection of civilians and cultural objects in cases of armed conflict – or by virtue of any other instruments of international humanitarian law.” 

 最後に出てくる“international humanitarian law”が「国際人道法」です。国際人道法の違反というのは、歴史的文化財を壊すとかの軽度のものから、無差別攻撃など重大なものまで色々あります。それが国際社会で“戦争犯罪”と呼ばれるものです。

 “War Crimes”、コスタリカはちゃんとこれを認識していますね。つまり、コスタリカ国民が、国家の命令で動員され、その交戦中に、もし「戦争犯罪」を侵した時、懲役10年から25年の量刑をもって対処する、としています。死刑制度を廃止している国ですから、かなり重い罪です。

 ここなのです。日本との決定的な違いは。コスタリカは、ちゃんと「交戦」、そして交戦中に起こるべき事故を国際人道法に沿って想定し、それを罰する国内法と国内法廷を整備しているのです。

 日本はどうか? 日本は、2004年、遅まきながら加入したジュネーブ諸条約追加議定書に対応するため、同年「国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律」を成立させたので、一応の法整備しているのですが、しかしその中身は、文化財の破壊や捕虜の輸送を妨害するなど、はっきり言って、どうでもいい罪への処罰だけで、肝心の重大な殺傷と破壊つまり「戦争犯罪」に関するものが一切ないのです。コスタリカのように「戦争犯罪」と言葉は、どこにも出てきません。

 なぜなら、『戦争しないのだから戦争犯罪は起きない』、『戦争犯罪を起こすのは戦力だけど日本は戦力をもたない』とする9条2項があるからです。つまり、「自衛隊がいるところでは『戦闘』つまり『交戦』は起こらない」が日本国憲法の「前提」だからです。この理屈で戦争犯罪を想定しなくて済むなら、国際人道法で人類が積み上げてきた努力など何の意味もありません。

 日本は、原発の安全神話のように、国家が戦争犯罪を起こすことを「想定外」としているのです。

国防は法治国家が行うこと

 コスタリカと日本の違いをまとめると、

●コスタリカは常備軍を持たない憲法を持ち、国民の国防への責任を謳い、それが必要になった時に国家がそれを動員し、その中で発生する戦争犯罪を想定し法整備をしながら、結果、“常備”する軍事組織を小規模なものにすることに成功している。

●日本は常備するにしないにかかわらず軍事組織を全く持たないとする憲法を持ち、国家が戦争犯罪を犯すことを想定外にし、結果、通常戦力として世界五指の軍事大国になっている。

 国際関係では、単に憲法があり様々な法で国内が統治されていることだけが「法治国家」の証ではありません。一番重要なのは、国際社会で合意した国際法の違反行為を自らが犯すことを想定し立法した法で自らを統制することです。

 民主主義国家の軍事組織とは飛び抜けた殺傷能力の独占を許された職能集団であるから、その機能を、その国家体制を脅かす外敵に対処する(交戦)ことだけに特化させるために、指揮命令と個々の構成員の自由を、最高度に厳格な特別法で縛る。かつ、その特別法は、人類が交戦中の違反行為の定義を歴史的に積み上げた国際人道法を世界共通の指針とする。これが、この職能集団を、警察を含む「シビリアン文民」と明確に区別するものですが、それがない日本は、単に、軍事的な「無法国家」なのです。

 北朝鮮だって厳し過ぎる軍法を持っていますからね。一体どっちが“無法”なんでしょう。

 日本国憲法ができて70年。何も変わらずここまで来ちゃったんですが、今たいへんなことになっています。多くの日本人が気づいていない、たいへんなことです。

 今、北アフリカの小国ジブチに自衛隊は武装して駐留しているんですよ。ジブチへの自衛隊派遣を決定したのは自民党ですけれども、自衛隊の駐留を半永久的な軍事基地に固定化し、政権を通して見事に運用強化したのは、旧民主党政権です、ジブチは主権国家ですから、外国の戦力を駐留させる場合、当然「地位協定」を結びます。

 そうです。日本は、自衛隊の駐留のために、ジプチとの間に、「加害国」としての地位協定を結んでいるのです。それも、日米地位協定の加害国アメリカよりはるかに有利な内容です。公務内、公務外に関わらず全ての事件、事故の裁判権を、ジブチに放棄させています。

 僕は日米地位協定の不平等性を訴える沖縄の運動を応援しますが、実は、日本は、そうするための法的な根拠を、既に喪失しているのです。この事実を、沖縄の米軍基地反対の運動もスルーしているのです。日本国内を飛ぶ米軍オスプレーを糾弾するが、なぜかジブチの空を飛ぶ自衛隊機を心配しない。堕ちたら、何が我々を待っているか。

 地位協定における日本の「加害者性」は、世界で唯一、異常ともいえる残忍性があります。だって、憲法上「戦力」を認識しないため、国家の命令行動の中で起きる軍事過失が発生したら、国家の指揮命令系統の責を追求するのではなく、自衛隊個人の一般過失に転嫁するしかなく、その一般過失も「国外犯規定」によって日本の刑法の管轄外という、見事な「法の空白」を呈しているからです。

 これは、個々の自衛隊員への人権問題であると同時に、自衛隊の海外での事故を完全に「想定外」にしているにもかかわらず相手国に対しては「想定」し裁判権を放棄させている、言わば「外交詐欺」です。これほどの駐留受け入れ国の主権と国際人道法に対する蹂躙はないでしょう。

 ジブチ政府だって、まさか日本みたいにちゃんとした国家の軍が、軍事的な過失責任を取れないなんて世界の常識からぶっ飛びすぎて、そんなこと確認しない。日本は、冗談では済まされない詐欺国家なんです。

 一方で、アメリカからイージス艦や戦闘機を非常な高値で買い続けています。そして、北朝鮮に対しても敵地攻撃とか先制攻撃とか勇ましいことを言う政治家もいます。でも、国家として、そういう武器を使った時の誤爆、誤射を想定していないのです。

 尖閣あたりで中国との衝突を考えましょう。中国海軍は武装させた漁船を最初から使うわけです。もし、自衛隊の弾がそっちに当たっちゃったらどうしますか。中国が「民間船に当てた」と言うでしょう。そうなると、これ、戦争犯罪ですよ。

 それだけでも世界が注目する外交問題なのに、日本は過失としてそれを審理する法体系そのものがないと分かってしまったらどうしますか。日本に同情する国は、世界に一つもないでしょう。この問題の根源をつくったアメリカも、「え!まだ改憲していなかったの? あれ、オレたちの軍事占領下のものじゃん」とシラをきるでしょう。

 最悪、騒動を収集させるために、国際刑事裁判所に自衛隊員を突き出さなければならなくなるかもしれません。さっきも言ったように、日本は国家の指揮命令系統に責任を負わせる特別な法体系を持っていない。自衛隊個人の過失にするしかない。

 同時に、法治国家として誤爆、誤射を想定しない軍備は、単に撃てないのです。日本の軍備は撃てないただのハリボテなのです。どんなに勇ましいことを言っても、ただのハリボテ。

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