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死刑制度はいったい何のためにある? 元裁判官らが討論「死刑制度は人間の尊厳を正面から問うもの」

誰もが、正常な判断を見失うことが有り得る

安田:
 ただね、僕は事件を起こした人と会ってきたんですけど、刑事事件の死刑囚の中に「これをやることで死刑になるかもしれない」と思った人はいないんです。みんなそんなことを思わずにやっちゃうんです。むしろ自分は助かる、と思ってやっちゃう人もいる。多くは激しい精神的興奮状態の中でやってしまうことが多い。

小林:
 異常な人が異常な状態で犯罪を犯したと考えがちだけど、私達だって今は正常な顔をしているけれど、色んな組み合わせで異常にカッとなりうるわけです。でもこれ以上やったら死刑になるかも、というのはブレーキになると思うんです。

安田:
 人を殺すってね、大変なエネルギーがいることだと思うんです。頭の中で「こいつ、憎たらしい。殺してやろう」と思うとする。でもそれが現実の行動となる。現実に命を奪う。これはものすごいエネルギーだと思うんです。そういうエネルギーというのは、正常な判断を見失った所に犯罪として生じると思います。

小林:
 そうなのであれば、犯罪を犯してしまった後の人生で、本当に悔い改める瞬間があったら、それはその人にとって救いですね。ただ、死刑判決があればこそ、得られる機会だと思います。

安田:
 実際に手を下す前に止まる、というのが普通だと思うんですね。それは、たとえば家族や友人がいて相談ができたり「そんなに興奮するなよ」とか「許してあげなよ、あんたも悪いよ」みたいな色んな話があって止まれると思うんです。でもそういうことがない所で起こってしまう。孤立してしまってこれしかないと思ってしまう。

 あるいは窃盗に入った場合、捕まったら今後仕事も何も無くなるから、こいつを殺して生き延びようと思ってしまう。お金に困って強盗するしかなくて、でも怖くてできない。じゃあ小さい子供を誘拐してお金を要求しようとなる。犯罪を犯す時は、正常な判断を完全に失ってしまっていることが多いですね。

横溝:
 だから抑止というのは働かないんじゃないかというのですね。

安田:
 はい。なかなか難しいですね。

犯罪者の精神状態について語る安田さん。

小林:
 被害者感情というものがあります。それは遺族にとってもそうだし、社会全体も傷つくわけです。それは死をもって償ってもらわないと収まらないと思うのです。

安田:
 教育的効果というものを考えていらっしゃると思います。でも現実は違う。私の経験ではそうです。

死刑廃止は社会の可能性を閉ざす

横溝:
 森炎さんにお聞きします。人の尊厳について考えたいけど、今は運用面で色々問題があるんじゃないかと。ここをクリアしないと、「尊厳」という形而上的な問題に行けないと思うんですけど、いかがですか?

森炎:
 率直に言うと、逆だと思います。今小林先生が言われたことと、私が言いたかったことはかなり違うんです。死刑判決が出ることで、その人の人間性が喚起されるということは全然問題じゃないんです。そのためなら死刑制度というのはあまりにも犠牲が多すぎる。何が本質的なのかというと、死刑廃止とは社会の可能性を制限してしまうかもしれないということなんです。

 人を殺そうとした時に死刑が念頭に浮かぶかどうかなんて問題じゃない。その可能性を無くすことが問題だと言ってるんです。死刑を廃止したら、その可能性はゼロになるんです。人を殺しても自分の命は助かるんですよ。犯罪を犯す時に死刑のことを考えたとか、それがどのくらいの確率かというのは全然問題じゃない。それによって社会が大きく変わる可能性があるんです。

 たとえばEUなんかは死刑を廃止してしまいましたけど、あれは政治的な廃止です。それが良かったのかどうかはもう少し見ないとわからない。ポストモダンのジャック・デリダ【※】なんかはEUの死刑廃止は本質的な所を見ないでやったのだと言ってます。あれは政治的決断だけだったと。彼は死刑廃止論者ですよ。彼は死刑の制度が全く成り立たないことを証明してみせると言ってその作業中に亡くなってしまったんですけど。

※ジャック・デリダ
フランスの哲学者。(1930年7月15日〜2004年10月8日)

横溝:
 社会の可能性を閉ざすということについて、安田さんいかがですか?

安田:
 僕は少し違う考え方を持っています。死と死が出会ってしまうと、極めて簡単に物事が解決してしまいます。ところが生と死が対面した場合、たとえば私が誰かを殺そうとした時、その存在が目に見えるわけです。この人に暴力をふるって、この人の苦しみを見ながらやるわけです。これは自分の死の問題でなくて、相手の生の問題です。目の前にいる人を殺すという、本質的な残虐さですよね。それに私達がどれほど気が付けるか。そういうことの方が重要だと思うんです。

 犯罪の現場をご覧頂いたらわかりますが、どうしてこんなことを、と思うくらい凄惨です。それに直面することの重要さというのでしょうか。そこから、犯罪を犯してはならないという人間の本質的な所に立ち返ってくるのかなと思います。

森炎:
 それは私が申し上げていることと同じだと思います。普通それは、自然にそう思うことですよね。なぜ自然にそう思えるのか。それは自分の存在と他人の存在が、ぎりぎりの所で繋がっているからです。繋がる為には、死において重なる存在でなければ、すべてが重なる部分でなくなりますよね。

森:
 森炎さん、そこで生において重なることはできないんですか?

議論を交わす森さんと森炎さん。

森炎:
 生において重なることもできるかもしれません。たとえば家族を作るとか。

森:
 他者の死において自己の死を確認する。その論理は、他者を救うことで自己の生をもう一度確認するということになりませんか?

森炎:
 そういうのはいくらでもあると思いますよ。川に落ちた子供を救うとか。いくらでもあると思います。私が申し上げているのは、法制度としてこれしかありませんということです。強制力をもって人間存在が繋がり合うということを知らしめるのは、死刑制度しかないはずなんです。強制力を持った法制度というのが重要なんです。

安田:
 僕はプリミティブ【※】な社会ってどうだったんだろうと考えるんです。アイヌの人達の話を聞いていくと、事件が存在しない。他人が他人を殺すというのは、社会が拡大して孤立化していく。そういう社会的要因の中で起こっていく。もっと小さい社会、小さい人間関係の中なら人を殺すというのは生じないのではないかなと思うんです。

 だから、死と死が直面する価値観の中で、物事が進んでいくそのレベルにも達していないと思うんですが、いかがでしょう。

※プリミティブ
原始的、素朴な、幼稚な、などといった意味のこと。

死刑制度は何のため、誰のため?

森炎:
 死を介して考えるのが非生産的である、そういう感覚はあるかもしれません。しかしそれは、とても狭い法律の世界の話です。死を覚悟して生きるということが、人間として本来的に生きることだということは、ハイデガーなどの思想でいくらでもありますよね。必ずしも死を介して社会を考えるのはよくない、ということにはならないと思うのです。

安田:
 私は、人は根源的に人を殺す存在なのだろうか? と考えます。人間は人を殺す存在ではないと思うんです。そこに色んな思想が入ってくることによって、人を殺す存在になっていく。

小林:
 でも安田先生、我々はもう何千年も文明の中を生きてきて、この段階まで来ちゃったわけです。人が人を殺した記録がある以上、人が人を殺すものではないというのは、無理な議論だと思うんです。もちろん、プリミティブな社会なら、その人間関係はファミリーだからそういうことはなかったかもしれない。でもファミリーだって殺し合うことはあるじゃないですか。プリミティブな社会を前提に議論したら、現代の行き来自由で犯罪多発のこの時代に、議論が成り立たないですよ。

安田:
 プリミティブだからどうだというのでなくて、もともと私たちの生活の中で犯罪というのは起こるものなのか。起こらないものなのか。例外現象なのか、普通いつでも起こるものなのか。そういう所から見直してみるべきだと思うんです。

横溝:
 安田さんはどう思われるんですか?

安田:
 やはり例外でしょうね。たとえばこの中の人達なら、どう変わった所で人を殺したりしないと思いますよ。それは教育かもしれない。豊かさかもしれません。でも、もともと人を殺すということは、人間の中に存在しないと思うんです。逆に人を殺してしまった人に出会い、その人の痕跡を見ても普通の人です。

横溝:
 だからこそ、何かがあればまた戻ってこれるかもしれないから、死刑にはせず償いながら、更生のチャンスを待ったほうがいいと。

安田:
 まあそれはひとつの可能性ですよね。私たちの社会の中ではどうなのだろうか。抹殺するというのがいい選択なのか。更生という形で社会の中で生きてもらうシステムを作るのがいいのか。

横溝:
 森炎さんにお聞きしたいんですけど、今の死刑制度は何のため、誰のための制度と考えればいいのでしょうか。我々が人間の尊厳というものを考えるためにあるのか。もしそうだとしたら、今の議論を見る限り、被害者感情に立脚している死刑制度が続いているのは危険じゃないかと思うのですが。いかがでしょう。

誰のための死刑制度なのか? に答える森炎さん。

森炎:
 人間の尊厳のために死刑制度があるというわけではありません。でも現実に死刑制度があるわけです。それを社会の中でどういうふうに位置づけるのか、となった時に私が言ったふうに位置づけられるんじゃないか。だとしたら廃止論にはなりませんね。という話なんです。

横溝:
 現在の被害者感情に立脚している死刑存置についてはどうお考えですか?

森炎:
 被害者感情に立脚しなければいけないと思います。死刑というのは、被告人が立ち直れるかとか、その後社会に役立つ人間になれるかどうかとか、そういうことを考えて死刑にするかしないか決めるべきでないんです。

 もしそうするなら、それは抹殺とあまり変わらない。こういう犯罪被害だから、被害者の人間の尊厳とか考えたときに、反射的に死刑しかないのだというのでなければいけないと思うんです。具体的には、被害者の復讐感情、これが死刑の一番核になるものだと思います。

それぞれの立場で議論を展開した。

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