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【潜水艦コレクション】旧日本海軍の潜水艦51隻プロフィールと戦歴をまとめてみた

 本ページでは、巡潜1型・巡潜3型・甲型改2の各艦について解説します。

巡潜1型

 巡潜とは「巡洋潜水艦」の略で、遠洋に行動し、敵国沿岸及び敵艦船に対し、作戦・行動することを目的とした艦種で、長期間行動できる航続力、居住を重視された。巡潜1型の原型はドイツで建造されたUボート「U-142」である。その設計図を買収してさらに技術者10名を招聘し、川崎造船所で建造された。

伊号第1潜水艦

大正15年3月10日、神戸川崎造船所で竣工。撃沈されるまで13人が艦長の任についく、昭和18年1月29日、後方よりニュージーランド哨戒船「カイウイ」「モア」から爆雷攻撃を受け、満身創痍になるも、敵哨戒船に何発か14センチ砲撃を命中させた後、船員を外に出し沈没。同年2月13日、伊2潜が雷撃処理を試みるために現場に到着するも、伊1潜は発見できなかった。戦死者27名、今もガタルカナル島カミンボ岬沖のサンゴ礁で艦と共に眠っている。

伊号第2潜水艦

大正15年7月24日、神戸川崎造船所で竣工。歴代で13人が艦長の任につく、昭和17年2月12日、横須賀を出港。同年3月1日、オーストラリア西岸でオランダ輸送船を、10日後の3月11日にはイギリス貨客船を撃沈するも、昭和19年、南北で輸送作戦に奮闘した伊2潜も4月4日ラバウルを経てトラック島への帰路、消息不明となった。アメリカの資料によると、4月7日に爆雷攻撃を受け、110名が戦死。

伊号第3潜水艦

大正15年11月30日、神戸川崎造船所で竣工。沈没されるまで14人が艦長の任につく、昭和17年4月7日、イギリスの貨物船を撃沈。さらに翌日にもイギリスの貨物船を撃沈させる。昭和17年12月9日、ガタルカナル島に食料を届けるため航行中、アメリカの魚雷艇に見つかり、船尾に攻撃を受け、砲術長などが爆風で海に投げ飛ばされた後、沈没。

伊号第5潜水艦

昭和7年7月31日、神戸川崎造船所で竣工。沈没されるまで14名の艦長の任につく、昭和17年6月17日、霧の中で敵艦隊の影が見えない状況で突然弾発を受けた。日本海軍が目視に頼る中、アメリカはレーダーを使用していたため、かなり苦しめられていた。昭和19年7月19日、トラック島より横須賀に人員物件を輸送中に、消息を絶つ、アメリカの資料によれば、アメリカ護衛駆逐艦にレーダー探知を受け、2回にわたる攻撃を受けていた。130名が戦死。

巡潜3型

 これまで日本潜水艦はドイツのゲルマニア型の影響を受けていたのに対して、日本海軍独自の設計による最初の巡潜型である点が大きな特徴。連装砲を装備した潜水艦というのはあまり例がなく、日本海軍潜水艦では唯一、この型だけである。

伊号第8潜水艦

昭和13年12月5日、神戸川崎造船所で竣工。沈没されるまで6名の艦長が任につく、ドイツへの航行中、悪天候により船のいたる場所で破損が見つかるも、隊員の決死の作業により10日に及ぶ暴風雨から脱出しドイツにたどり着いた。昭和20年3月20日、沖縄の海にて敵艦隊に挟撃され集中砲火を受け、128名の乗組員と共に艦尾から沈没。沈んでいく中、最後まで火を吹いていたのは、ドイツで装備された20mm4連装機銃だった。

甲型改2

 飛行機格納筒、司令塔の配置など艦橋部分の形状は潜特型に準じ、さらに、水上攻撃機を発進させる射出機やクレーンは潜特型と同じものを装備した。しかし、予定通り建造竣工できたのは2隻のみ。伊15潜は工程90%で終戦となり、海没処分された。

伊号第13潜水艦

昭和19年12月16日、神戸川崎造船所で竣工。艦長の任についたのは1名のみ。昭和20年7月16日、浮上中のところを対潜部隊に発見され、スクリューに直接攻撃を受け海底へ。その後、大きな爆発音が確認されている。艦長以下140名全員戦死。太平洋戦争中もっとも戦死者の多い潜水艦となった。

伊号第14潜水艦

昭和20年3月14日、神戸川崎造船所で竣工。艦長の任についたのは1名のみ。昭和20年7月4日に入港し、直ちに出港予定だったが、スクリュープロペラの軸受けが加熱し、修理のためドック入りを余儀なくされた。同年7月14日、修理を終え出港するも、7日、アメリカ駆逐艦に捕獲される。昭和21年5月28日、ハワイ近海でアメリカ軍による調査後、海没処分された。
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 8月22日から4日間にわたって五島列島沖に沈む潜水艦から「伊58」「呂50」の特定を目指す調査を実施。ニコニコ生放送でその様子をリアルタイムで配信予定です。「伊58」が70年の眠りから覚める瞬間をぜひ皆で見守りましょう!

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