元ドイツ・Uボートは見つかるか? 「それぞれの潜水艦には物語がある。『呂500』を探し出し世に問う」探索チーム代表
ドイツ海軍の潜水艦として1941年に建造された「U-511」。1943年5月にヨーロッパを出港し、約3万kmを経て日本に到着、日本海軍の潜水艦『呂500』となりました。
日本に多くの技術を伝えた『呂500』ですが、1945年、練習艦として舞鶴で終戦を迎え、1946年に連合軍により日本海の若狭湾に海没処分されました。
今回、ニコニコ生放送では6月18日から4日間にわたり、「ドイツ生まれの潜水艦・旧日本海軍「呂500」を追え!日本海より探索調査を生中継」と題し、この「呂500」を探索する様子を生中継いたします。
この探索プロジェクトの概要と意義について、ラ・プロンジェ深海工学会・理事長を務める浦環さんから頂いた寄稿を、本記事にてご紹介いたします。
文:浦環
編集:ニコニコニュース編集部
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第二次世界大戦中、ドイツから贈られた潜水艦『呂500』
第二次世界大戦中、独ソ開戦により陸路および空路の連絡路が失われた日本とドイツの間を潜水艦にて結ぶことが計画されました。遣独潜水艦作戦と呼ばれる作戦は5次にわたって実施され、5艦の帝国海軍潜水艦がドイツに向かいました。『伊30』、『伊8』、『伊34』、『伊29』、と『伊52』です。3艦はドイツに到着、『伊8』は約半年の航海の後に呉に戻ってきています。
『伊30』と『伊29』はシンガポールまでは戻ったものの、その後に日本に帰ることなく沈没しています。『伊34』と『伊52』は往路で撃沈され、ドイツにはたどり着いていません。
一方、ドイツは、連合軍の通商線を破壊するために、インド洋まで潜水艦を派遣していました。共同作戦をおこなう日本軍の活動を強化するために、技術移転を含め『U-511』と『U-1224』を1943年日本に譲渡しました。それぞれ『呂号第五百潜水艦』(以下『呂500』)、『呂号第五百一潜水艦』(以下『呂501』)と命名されています。
『U-511』はドイツ人乗組員により、『U-1224』は『伊8』でドイツに送り込まれた日本人乗組員によりドイツから日本へと回航されました。呂501は1944年3月30日にキールを出航し日本に向かいましたが、同年5月13日に大西洋・カーボベルデの北西沖合でアメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦『フランシス・M・ロビンソン』によって撃沈されています。
終戦後連合軍により海没処分に
『U-511』は、1941年ドイツで建造され、1943年5月10日フリッツ・シュネーヴィント艦長の指揮の下、フランスのロリアン港を出港、大西洋を通り喜望峰を回りインド洋に入り、同年8月7日、90日の航海を終えて呉に入港しました。途中、インド洋にて米商船2隻を撃沈しています。
同年9月16日に日本に譲渡され『呂号第五百潜水艦』(『呂500』)と命名され、呉鎮守府警備潜水艦になりました。日本では実戦には投入されず、対潜訓練隊で訓練目標として使用、ソ連の参戦に伴い樺太へ出撃することになり、舞鶴で待機中に終戦を迎えました。
1946年5月7日に舞鶴沖合にて『伊121』と『呂68』とともに連合軍により海没処分されました。米軍の報告書によれば処分位置は若狭湾の中央部、越前岬と丹後半島の中間地点「北緯35度50分、東経135度30分」です。
戦時下の日本とドイツの架け橋となった艦
戦時下の日本とドイツの懸け橋とならんと奮闘した日本の各艦の航海の概略を表に示します。
亡失率の高さは連合軍による哨戒下、地球を半周するこの航路がいかに困難なものであったかを物語っています。ドイツと日本の潜水艦のインド洋から大西洋にわたる行動は吉村昭氏著『深海の使者』(文春文庫)に詳しく書かれています。
(画像はAmazonより)
私たちは、「『伊58』『呂50』特定プロジェクト」を行っているときに、何人かの方々から「『呂500』を探して欲しい」という連絡を受けました。『呂500』から得た技術がその後の日本の潜水艦技術に影響を与えたとも聞いています。海上自衛隊員がドイツ海軍軍人に、「70年前に日本に贈った『呂500』はどうなっている?」と聞かれて返答に窮した、ということもお聞きしました。
いったいどこに沈められたのか?
若狭湾に同時に沈められた『伊121』と『呂68』は、寸法的には『呂500』とほぼ同じです。この二艦についても探し出します。
行方不明のままの日本の潜水艦はたくさんあります。それぞれの潜水艦にはそれぞれの物語があります。行方不明の潜水艦はいずれ探し出さなければならないと思いますが、私たちのできることは限られています。
そこで、「『伊58』『呂50』特定プロジェクト」の成功を踏まえて、一般社団法人ラ・プロンジェ深海工学会は、ドイツから幾多の困難を超えはるばるやってきた『呂500』を探し出し、その現在の姿を世に問うことを決めました。
プロジェクトの意義
「『伊58』『呂50』特定プロジェクト」で発見した立ち上がる『伊47』。ROV(遠隔操作型の無人潜水機)から得られたビデオ映像をモザイクして作りました。
日本を目指した『U-511』、『U-1224』以外にも両国を結ぶため困難な航海に挑んだ潜水艦がいました。1941年、インド独立運動の主導者スバス・チャンドラ・ボースはドイツに亡命。1943年2月8日に、ボースの乗り込んだドイツ海軍の潜水艦『U-180』はブレストを出航。
4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖で日本海軍の『伊29』が出会い、翌4月27日にボースは日本潜水艦に乗り移りました。5月6日、『伊29』はスマトラ島北端海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着。
ボースは現地で休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京に到着しました。
1945年3月、『U-234は、ロケット戦闘機やジェット戦闘機などを搭載し、日本海軍の技術中佐2名を便乗させて日本に向けてキールを出港。6月8日のドイツ無条件降伏に従い、5月15日アメリカ海軍護衛駆逐艦『サットン』に降伏しました。
このように、インド洋・大西洋をまたがるドラマと技術は、刮目してみるべきものがあり、潜水艦の実物の姿から歴史や携わった人達の息吹を感じることができます。そのためにも、『呂500』探索を成功させたいと考えています。
調査は2018年6月18日から始める予定です。越前町小型底曳網組合の『大黒丸』を使っての4日間の調査です。
私たちが海の上で何をやっているのかを見ていただくために、調査船上から調査の模様を、情報通信研究機構とドワンゴ(株)の協力を得てニコニコ生放送で放送します。ぜひご覧ください。
■関連リンク
呂500探索プロジェクト:クラウドファンディングサイト(6/18(月)午後11時まで受付)
ニコニコでは6月18日から旧日本海軍「呂500」の探索を行う様子を『ドイツ生まれの潜水艦・旧日本海軍「呂500」を追え!日本海より探索調査を生中継』と題して中継いたします。
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