「平和主義のメッキが剥がれてきている」戦後日本が抱え続けた“平和主義と日米安保の矛盾”の歴史を解説【話者:白井聡】
平和と戦争の狭間にいる日本
白井:
だから、もっと端的に言えば、日本はアメリカによる戦争の片棒を積極的に担いでますよね。だからここに赤裸々な矛盾があるわけです。憲法9条をいただく平和国家で絶対平和の国であるということと、世界最強の四六時中戦争をやってる国の大変重要な協力者であると。この矛盾ですよね。こんな矛盾を抱え込まざるを得なかったのは、言って見れば国体護持のためだったっていうことなんですよね。
今、その矛盾が赤裸々に現れてきていて、結局のところ、どっちが大事なの、ということが問われている。アメリカの重要な協力者ですよっていうことと、絶対平和を国家理念にしてますよっていうこと、どっちが大事なの? という問いです。結局、アメリカの協力者であることの方が断然大事だよねっていう本音が前景化している。だけども、これはもとから権力支配層はそうだったんですよ。
しかし、大半の国民はこの矛盾に無自覚なまま、何となくこの本音の方が日本社会の全体のコンセンサス【※】にいつの間にかなりつつある。この矛盾を誤魔化してきた戦後の親米保守支配層は非常にうまかったわけですよね。例えば、吉田茂は三枚腰で考えてたわけです。どういうことかと言うと、最初に「完全非武装でいきなさい」とアメリカから言われて、困ったなって思ったわけだけれども、天皇を守るためには仕方ないかと思ったわけですよね。
※コンセンサス
複数の人による合意・意見の一致。
これくらい反省してます、っていう姿勢を、世界に対して見せないとやばいなということで、国会でも「自衛権すら、もう、ないんだ」と断言した。でもそれは吉田の本音じゃないんですよね。そのうちほとぼりが冷めたら再軍備することになるだろうという考えがあるわけです。で、そのタイミングは早くも朝鮮戦争が起こることによって、訪れる。アメリカが命じてくるわけですよね。
「おい、お前らにも手伝ってもらわないと困る」と。で、本格的な再軍備をアメリカは求めてくるわけですけれども、吉田茂はこれを断るわけです。警察予備隊【※】でもってお茶を濁す。吉田からすれば、今はとてもじゃないけれども、そんな本格的な再軍備をやるようなお金はないし、大東亜戦争をやった軍人どもが大手を振って復権することも、吉田は嫌悪していました。
※警察予備隊
1950年8月10日にGHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された武装組織。1952年10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。
だから、吉田の考えでは、ここでのアメリカの要求は、のらりくらりとかわさなきゃいけないなと。だけれども、ずっと永久に軽武装っていうことでいけばいいかというと必ずしもそうは考えてはいないですから、本当に、二枚腰、三枚腰だったわけですね。いずれにせよ、吉田茂のような人物は、完全な非武装に基づく絶対平和の理念というものとは何の関係もなかったわけです。
そういうわけで、少なくとも、政治や官僚、あるいは財界の世界といった、戦後日本の主流派の集団において、国家理念としての戦後の平和主義をどう真剣に捉えて、どう実現していくのかっていうことは、実はただの一度も真剣に検討されたことはないんじゃないか? というのが、今、突きつけられている現実だと思いますね。
なぜ戦後、何十年も検討されないままなのか
なんでそんなことになったのか。あの戦争を極めていい加減な処理しかしていないから。改憲問題にしても、なぜ決着がつかないのか。1955年に自民党がいわゆる保守合同によって結成されて、改憲するということを党の根本的な綱領として掲げて結党されてるんですね。
そして現在に至るまで、例外的な一時期を除いてずっと自民党は政権の座にいるわけです。にもかかわらず、憲法改正は今の所実現してないんですよね。これは誠に驚くべきことだと思います。何回か、本気でやろうとはしてるんです。一番改憲の機運が高まったのは50年代ですね。改憲問題をめぐる吉田茂と鳩山一郎【※】の対立関係ってよく言われますけど、僕に言わせれば根本的には対立していないのです。
※鳩山一郎
1954年、内閣総理大臣在任中に自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現。
鳩山一郎は原則的な改憲派であって、再軍備をなし崩し的にやっていくのはよくないと思っていた。吉田茂はある意味、それに比べて現実派というべきか、ゆくゆくは改憲することになるだろうけれども、とりあえずこんな感じでいいんじゃないかと。表立って改憲するとアメリカからもっと軍事的な役割を果たせって言われるし……というようなスタンスです。ある種のバランス感覚の話ですけども、結局どっちも再軍備派なんですよね。
それも正式な形で再軍備をいつかするべきである、それが早いか遅いかの違いであって、大差はないってことなんです。こういう具合に、戦後日本の政治の中心的指導者、岸信介【※】なんかもそのあとに続いてくるわけですけど、その考え方が本質的な部分で一致していたにもかかわらず、なんで改憲ができなかったかってことなんですよ。
※岸信介
自由民主党初代幹事長。内閣総理大臣就任後は、日米安保体制の成立に尽力。
それは結局、彼らが信頼を得ることができなかったからなんです。特に50年代に戦われた改憲論争的な文脈と、選挙での結果、結局できなかったわけですが、そこにおいて改憲問題を当時の保守支配勢力が堂々と提起できなかったんです。正面切って提起するたびに、彼らは失言したんですね。
つまり、戦前の権威主義をそのままに引き継いだような発言をぽろぽろとやって、その度に、世論の間ではものすごい警戒感が広がりました。戦争が終わってからわずか10年くらいしか経っていない時期ですからね。「また、あいつらあんなこと言ってるよ」と。だから、結局彼らはこの空気のために改憲することができなかったということが50年代の状況でしたよね。そして、60年安保闘争が起こる。あの混乱は支配層にとってはトラウマ的な事態であって、自民党は以後長い間改憲を言い出せなくなりました。
60年安保も岸信介の経歴とキャラクターに対する反感が最大の要因であったわけだから、いつも問題になってきたのは戦前の亡霊なんですよね。未だにある意味同じことを反復してるわけなんです。今、改憲を一番頑張ってる人たちは誰かと言うと、日本会議なわけですよね。日本会議は何なの? って言うと、彼らは憲法9条と同時に、同じかよりそれ以上に戦後憲法における個人主義を非常に憎んでるんですよね。
個人主義が家族を、いわば戦後の日本の家族という社会のベースを破壊し、おかしな国にしてしまったという考え、価値観に凝り固まっているわけです。だから、なんでこういうパターンになっちゃうのかな? っていう話なんですよね。改憲を一生懸命やろうとしてる人たちは、常にこういう露骨な復古主義丸を持ち出してきて、そして、顰蹙(ひんしゅく)を買って……そして結局のところ、必要な再検討は行われないままに今日に至ってしまいましたよね。
右翼と左翼のねじれ
実は、戦後直後の左翼は、平和憲法を全然評価してなかったんです。当時は、(米ソの)二大陣営の対立の中で、どちらかと言うとソ連の陣営に立ちながら、世界中に共産主義革命を広げていくべきなんだっていう立場に立つのが、言わばオーソドックスな左翼の考え方だったわけです。
その時に、どうやって革命をやるかと言うと、暴力革命の可能性は排除されていなかった。だから暴力を使うことを全然否定してなかったわけであって、世界革命を目指す共産主義者から見れば憲法9条なんていうのはナンセンスだったんですね。本来左翼はそうした価値観に立っていたはずなんです。ところがいつの間にか、共産党も社会党も、護憲の党、ということになってくるわけなんですよね。
他方で先ほど言ったように、そもそも憲法を変えたいはずの自民党が万年与党として君臨する中で、つまり、左翼は決して権力は握れないという状況の中で、自民党が本当にやりたいことだけは絶対にさせないぞというのが、いわば野党の存在意義になっていったという感はありますよね。そういうなかで、護憲か改憲かという単純な二項対立が形成されていった感じがありますね。
ただし、こうした構造が固まった55年体制の安定期においては、自民党の中のかなりの部分も護憲派になっていたんです。例えば、先年亡くなった野中広務【※】さんは自民党の中でもかなりはっきりした護憲派だったわけですよね。自民党の中にはほとんど極右という考え方から、憲法に関する見解に関してはほとんど左派に近い人まで、相当広いグラデーションがあったわけです。これが、ここ5年、10年くらいにおいて、安倍さん的な考え方に純化されてきたなっていうのが現在の情勢ですね。
※野中広務
自由民主党幹事長、自由民主党行政改革推進本部長などを歴任