真珠湾にスパイを送った『大洋丸』――南方開発の夢とともに太平洋戦争で沈んだ悲劇の客船、その知られざる歴史
太平洋戦争の開戦から5ヶ月、破竹の快進撃を続けていた日本に一本の悲報が届きました。東南アジアへ向かった客船『大洋丸』が、米潜水艦の魚雷攻撃により東シナ海に沈んだのです。優秀な石油技術者や商社マンなど817名が犠牲となり、「日本の南方開発が2年遅れた」とも言われる『大洋丸』沈没事件。ニコニコでは、この『「大洋丸」探索調査の模様を8月23日より生中継』でお伝えいたします。悲劇の客船とも称される『大洋丸』とは一体、どんな船だったのでしょうか―。
ドイツで作られた「大洋丸」
今から100年以上前の1911年、大洋丸はドイツのハンブルグで「カップ・フィニステル」号として建造されました。全長約180m、総トン数1万4千トン。吹き抜けの一等食堂や温室風の庭を完備し、水泳プールは当時の船客を驚愕させました。ドイツと南米を結ぶ航路に就航し、往路は移民や機械類、復路はコーヒー・食肉などを運び、南大西洋屈指の豪華客船として知られました。
しかし1914年、第一次世界大戦が勃発すると母港のドイツ・ハンブルクに係留されます。そして1918年11月、ドイツの降伏によって大戦が終結すると、賠償船として戦勝国に接収されることになりました。
「大洋丸」、日本へ
第一次大戦後、賠償船として接収された大洋丸はアメリカ政府・イギリス政府を経て、日本政府に交付されました。1921年1月、横浜に到着した大洋丸は引き受け先に苦労することになります。豪華施設の影響で船上の構造物が巨大であること、そして南米の河口を通過するため喫水が浅かったことから安定性が悪かったからです。仕方なく海上ホテルや海軍病院とする案が浮上すると、それはあまりに気の毒という声が上がり、サッポロビールや日産自動車の基礎を築いた浅野総一郎の東洋汽船が引き受けることに決まります。
浅野は、北米航路に投入すべく船底におもりを増やす等、必要な改装を加え、大洋丸は民間船としてサンフランシスコ航路で活躍しました。1921年には、後の連合艦隊司令長官となる山本五十六少佐(当時)が大洋丸に乗船し、アメリカでの国情研究から帰朝しました。
なお山本少佐はアメリカ赴任の際、船内での演芸会に日本人の出場者がいないと見るや、さっそうと手すりで逆立ちをして場を沸かせます。両手に皿を乗せたまま宙返りするパフォーマンスもやってのけ、船客たちを大いに盛り上げました。1923年9月に関東大震災が発生すると、北米から急行した大洋丸は2000人以上もの罹災者を無料で清水港へ輸送するという人道的な役割も果たしました。
浅野の東洋汽船はその後、日本郵船と合併。1929年に130万円で日本郵船に払い下げられた大洋丸は引き続き太平洋航路において活躍、その豪華な施設で戦前期の昭和を彩りました。1932年のロサンゼルスオリンピックでは日本選手団を現地へ送り、船内のプールは、後に「前畑ガンバレ」の実況で有名となる前畑秀子選手にも利用されました。
太平洋戦争の開戦直前、スパイを送り込んだ大洋丸
1941年8月、国際関係の悪化に伴い太平洋航路が閉鎖されます。人や物資の往来がストップした日本は外国に住む日本人の帰国要請に応えるため大洋丸の配船を決定しました。そして1941年10月、大洋丸は煙突にある日本郵船のマークを黒塗りし、政府船として横浜からハワイへと向かいました。
大洋丸はこの時、在留邦人の引き揚げとは別に、もう一つ重要な仕事が課せられていました。奇襲作戦を成功させるため、真珠湾を偵察するという任務でした。
事務員を装った海軍参謀らのスパイを乗せた大洋丸がハワイに到着すると、真珠湾が一望できる桟橋の一番外側に接岸されました。大型船でデッキが高かったこともあり、停泊しているアメリカ艦艇の種類や緊急着陸可能な地点を把握することができました。入港から3日後の11月4日、日本へ向けて真珠湾を出港する予定でしたが、アメリカ側が帰国する日本人に対し荷物検査を実施します。
事務員を装った参謀はほとんどの情報を頭に記憶、どうしても覚えられない資料はこよりを作って紐状にし、アメリカ側の検査をなんとか切り抜けることに成功しました。そして乗務員への身体検査も終了し、予定より1日遅れて大洋丸は真珠湾を出港しました。11月17日、大洋丸は横浜に無事到着、参謀が苦労して持ち帰った真珠湾の最新情報が伝達されます。
これは、攻撃隊が最終演習を終えて本土を出発する1日前のことでした。なお、大洋丸は大本営の指示に基づき一般的な航路を利用せず、北寄りの航路をとりました。これは真珠湾攻撃に備え、航路上の気象や海況、敵の哨戒状況などを調査するためでした。(結果、奇襲部隊は大洋丸の航路を利用し真珠湾を攻撃)。