真珠湾にスパイを送った『大洋丸』――南方開発の夢とともに太平洋戦争で沈んだ悲劇の客船、その知られざる歴史
開戦後、南方開発に燃えるサラリーマンの夢を乗せて
太平洋戦争勃発後、快進撃を続ける日本軍が東南アジアに占領地を拡大すると、「南方開発」が急務となります。戦争遂行に必要となる、石油等の資源を獲得することが目的でした。東条英機首相は民間サラリーマンによる「経済戦士」が誕生したと述べ、南方開発の計画が急ピッチで進められました。
民間の会社も政府の方針に敏感に反応します。戦時下においては軍の仕事を受けられるかどうかが会社の業績を大きく左右するからです。かくして、陸軍主導で南方を開発するための民間派遣団がはじめて結成されました。派遣団には三菱商事や三井物産をはじめゴムやセメント企業など、関係会社は100社近くに及びました。そして大洋丸はこの経済戦士を乗せて南方へと向かう、配当船の第一号となるのです。
開戦から約5ヶ月が経過した1942年5月5日、南方開発の夢をのせたサラリーマンが広島・宇品港に集まりました。各企業が選りすぐった、各界のエキスパートたちでした。出港前には陸軍の近藤中佐より「護衛その他につき十分の準備と責任を持つも、途中、敵艦の襲撃の危険性なしと断言なし得ず、とくに本船はその可能性十分あり」との訓示が行われます。しかし日本軍が破竹の進撃を続ける当時、その言葉を現実のものと考える人は多くはありませんでした。
広島・宇品港を離れた大洋丸は瀬戸内海を静かに進み、翌5月6日に門司で炭水を補給します。関門海峡にある六連島に移動すると、他の民間船とともに5隻の船団を組みました。船団には護衛として、商船を改造した特設砲艦「北京丸」もつけられました。
船団速力は最も遅い御影丸に合わせた9ノット(時速約17km/h)。大洋丸の原田船長は「そんなに速力を落とすと、機関整備が困難になるほか、敵潜水艦の危険率が高くなる」と強く反対しますが、受け入れられません。最大速力17ノットの大洋丸にとっては金縛りの航海となりました。最初に目指す寄港地はフィリピンのリンガエン。1942年5月7日、大洋丸は南方開発に燃える経済戦士ら1360人を乗せて、いよいよ日本を出発しました。
米潜水艦との遭遇
運命の1942年5月8日、船団は大洋丸を先頭に長崎・五島列島沖を航行し、何事もなく東シナ海を南下。午後2時には避難訓練が行われました。大洋丸には18隻の救命ボートが積まれており、右舷に奇数の1,3,5…17号艇、左舷に偶数の2,4,6…18号艇が並べられ、船室ごとにボートが割り当てられていました。合図のドラが鳴ると、経済戦士たちは救命胴衣をつけて決められたボートの前に集合しました。
この時、彼らの運命を決める重大な決定が下されます。万一の場合、30歳以下の者はボートではなくイカダで避難することになったのです。ボートの収容可能人数は計985人、船には定員を上回る1360人が乗っていました。訓練は点呼だけで終わり、救命艇を下ろす訓練は実施されませんでした。
午後6時半からは、一等食堂で祝宴が開かれました。フィリピンのマニラ湾に浮かぶコレヒドール島を占領したという情報を受けてのものでした。フィリピンに向かっていた大洋丸の船内では酒も振る舞われ、お祝いムードあふれる賑やかな雰囲気となりました。ちょうどその頃、船団を発見したアメリカの潜水艦・グレナディアが魚雷攻撃を準備していました。
午後7時半過ぎ、サラリーマンたちが今後の計画や抱負に心を躍らせている最中、「グァァン!」という大音響とともに、凄まじい衝撃が大洋丸を襲いました。息つく暇もなく、2度目の衝撃が船首側を襲います。直撃した魚雷が150トンのカーバイトに引火し、船体前部は大爆発を起こしました。船内はたちまち大混乱に陥ります。階段付近は修羅場でした。我先に甲板へ上がろうと猛烈な押合いとなり身動きがとれません。
前の者を押しのけ、踏みつける者。人の下敷きとなり、悲鳴をあげる者。怒号が飛び交う無秩序な状況が生まれていました。出発前に敵艦襲撃の可能性を訓示していた陸軍の近藤中佐は「諸君、落ち着け!本船は簡単に沈まない」と声をからし、救命具を手渡していました。
その頃甲板では、甲板員を待つことなく救命ボートが降ろされようとしていました。明らかに定員を超えていても、次から次へとボートへ飛び移ろうとする人が後を立ちません。もはやボート組もイカダ組も関係ありませんでした。ボートを降ろすにしても訓練を怠っていたため、片側の縄がバランスを失い乗っていた人たちが海中に投げ出されてしまう場面があちこちで見られました。船首側では依然としてカーバイトが爆発を続けており、甲板には火の粉が飛散。船体は徐々に左舷側に傾き始めました。
海上にはところどころに人の頭と思われる黒い点が浮かんでいました。波が押し寄せるたびにその黒い点が見え隠れし、「オーイ、オーイ」という声が繰り返し聞こえました。浮かんでいる救命ボートは数えるほどでした。数少ないボートには、はちきれんばかりの人が乗り込んでおり、新たに乗ろうとつかまる人は指をはずされ、それでも諦めない人はオールで殴られました。
そして魚雷を受けてから約1時間が経過した20時40分頃、「天皇陛下万歳」の叫び声や「君が代」の歌声が闇夜に響く中、全長180mの大洋丸は船尾を天に向け逆立ちした後、船長らとともに海中に姿を消しました。
大洋丸沈没のその後
大洋丸が消え、真っ暗となった海。漂流していた人々は高い波によって次々と海に吸い込まれていきました。闇夜の東シナ海に夜光虫がキラキラと美しい光を放つ中、生存者はボートや救命胴衣、浮遊物に身を任せます。身体が冷え切ってくると自分の尿で暖を取りつつ、「眠ったら死ぬぞ」と声をかけ合いながら救助を待ちました。
護衛していた北京丸のSOSによって駆けつけた駆逐艦峯風と特設砲艦富津丸が現場に到着したのは午前0時頃。救助活動は沈没から6時間余りが経過した午前3時頃から始められました。生存者は543人、救助された艦上で息を引き取った13人を含め817人が犠牲となりました。
軍は真相をひた隠しにしました。当時は戦勝気分に酔っていたことから国民の士気に影響することを恐れ、厳しいかん口令を敷きました。生存者には秘密事項だからと口止めし、親類知人にも話すことを禁じました。救助後に収容された長崎の旅館では、しばらく外出することもできませんでした。遺族が死亡広告を新聞に出す際にも、「大洋丸」の文字を出すことは許されませんでした。
大洋丸の犠牲者の家族には、一部の例外を除き遺族年金がおりていません。陸軍省が「死亡者ハ陸軍無給軍属トシ、死亡ハ公務死亡トスル」と発表し、「戦死」扱いとはしなかったためです。「戦死」でない以上、遺族年金はおりず同じ死でも非戦闘員は「英霊」の仲間にも入れてもらえないのです。
遺族の中には、「東支那海ニ於テ戦死ス」と書かれた死亡公報を受け取った人もいました。しかし翌日不備があったと憲兵が持ち帰り、再度来たときには「不慮死ス」と文言が変わっていました。それが、国の対応でした。
大洋丸の沈没は長く秘密のベールに包まれていたため、遺族会が結成されたのは1979年。事件から37年もの月日が経過していました。そして沈没から40年となる1982年5月8日、大洋丸遭難事故の慰霊祭が長崎にある本蓮寺で初めて執り行われました。口外することができず、きちんとした補償も受けることができなかった遺族ら約120人が集まり、法要が営まれました。
沈没から76年。国家の名のもとに戦地に駆り出された経済戦士らとともに、大洋丸は今も東シナ海に眠り続けています。
南方開発に燃えた多くの民間人が犠牲者となり、「日本の南方開発が2年遅れた」とも言われる大洋丸沈没事件。ニコニコでは8月23日より、『太平洋戦争で沈んだ悲劇の客船「大洋丸」を追え!東シナ海から海底探査を生中継』と題し、大洋丸の遺族の方の要請を受けて行われる調査の模様を生中継でお伝えいたします。
■参考文献
・日本郵船戦時船史
・企業戦士たちの太平洋戦争 大洋丸事件の真相
・大洋丸誌
・続・大洋丸誌
・大洋丸の航海
・世界の艦船 1982年2月号、1996年1月号
・地方記者レポート
・海と船の雑誌・ラ メール 2014 No.224
・文献探索(2005)
・太平洋戦争・発掘秘史(週刊ポスト 昭和57年7月30日、8月6日号)