麻原彰晃らの死刑執行に宮台真司が言及 マインドコントロール下にあった死刑囚たちの刑執行は妥当だったのか?
7月6日、オウム真理教の一連の事件で死刑が確定した13人のうち、元代表の麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚ら教団の元幹部7人に死刑が執行されました。ニコニコ生放送ではライターのジョー横溝さんの司会進行で、社会学者の宮台真司さん、共同通信編集委員の竹田昌弘さんを招き、特別番組「なぜ今なのか? 元オウム真理教 麻原彰晃 死刑執行の背景を考える」が放送されました。
正式な精神鑑定を受けず刑が執行された為、麻原元死刑囚の精神状態の真相は不明のままです。宮台さんは麻原元死刑囚が自ら人格崩壊を遂げたと仮定し、その場合、心神喪失のため死刑を執行しないのは理にかなっているのかと問いかけました。
またその他の信者についても、誰でもそうなりうるような仕掛けの中にたまたま身を置いてしまった人間が罪に問われるべきなのかどうかと、現行の法的な枠組みの外側で問題が起こっている可能性を指摘しました。
なぜ正式な精神鑑定をしなかった? 死刑執行後も残る大きな疑問
ジョー横溝:
竹田さんにいくつかお伺いすることができればと思うのですが、今回の執行を巡っては、麻原元死刑囚の裁判に問題があったのではないかと言われています。麻原元死刑囚の精神状態を巡ってということだと思うんですが、このへんは竹田さんのご意見を伺うことができればなと思いますが、いかがでしょうか。
竹田:
まずふたつに分けて言いますけれど、精神状態という意味では、宮台先生もおっしゃったかもしれませんが、一度も正式な精神鑑定を受けていないというのは、どちらなのかなと疑問に思いますね。もしそういう結果が出たら、怖くてできなかったかもしれません。それはおかしいです。
もうひとつは控訴審で控訴趣意書の提出期限も、「まもなく出す」と言っているのに提出期限オーバーを理由に、手続きを打ち切って控訴を棄却してしまったと。
これは非常に事件が社会的に影響力というかですね、最大級の事件と言われているわけで、それをこうした形で、しかもあと1日、2日待てば控訴趣意書が提出される時にどうしてなのかなと。これも大きな疑問がありますね。
ジョー横溝:
確実に提出されると言われていましたね。かなりそこに関しては、司法がトリッキーな動きをしたという認識ということでしょうか。
竹田:
僕は初公判からちょうど第100回公判まで取材をしていました。転勤で101回以降から最後の判決までは見られなかったんですけれども。
初公判から100回までの様子を見ていても、非常に急いでとにかく早くやりたいというのがありありで、もう少し充実した審議というか、証人も多くて急がなきゃいけないのでしょうけれども、どうなのかなと思う場面がいくつもありましたね。
ジョー横溝:
100回公判まで見ていらっしゃったということなんですけども、これも弁護団が言ってることなんですが、一審の途中から麻原元死刑囚は心神喪失状態で、それ以降の供述はしていないんだと。控訴審は最初から心神喪失状態で、弁護人からしてみたら訴訟停止を申し入れていたんだけども、それが退けられて死刑判決が出てしまったんだと。
つまり実質は一審の途中までしか審議がされていないというような感覚だと言っているんですが、竹田さんは現場で裁判を見ていらっしゃっていて、その麻原元死刑囚は詐病だというようなことも言われていたりするのですが、どんな感覚だったんですか。
竹田:
ちょうど井上嘉浩元被告の反対尋問の時に「自分が背負う」でしたかね、そう言って「井上の証人尋問もやめさせてくれ」と急に言い出して。それにもかかわらず、証人尋問、反対尋問なので弁護人が尋問を続けたんですね。そうすると、もうその時からほとんど弁護人の接見に応じなくなりましたね。
法廷ではわけのわからない英語を喋ったり、奇異な行動が多くなっていきましたね。井上嘉浩元死刑囚の尋問というか、そこからですね。当時も取材をしましたけれども、意思疎通ができない、弁護の方針も立てられない。困ったという状況でしたね。
ちょっと汚い話はしたくないですけれども、房を自分の汚物で汚したりいろいろするようになって、房から出るのを嫌がったり抵抗したりというのもあったし、法廷では大人しくというか、寝ているか起きているかよくわからないんですけれど、ぶつぶつ話をしていたりとか、そんな感じでしたね。
だから弁護団はちょっと精神的におかしいんだと言うんですけれど、私は記者ですから特に医学を学んだ者でもないので、なんとも言えないので、厳正公平な鑑定をやってくれれば、その結果を受け入れられるのですが、やられていないので、結局今日に至るも麻原元死刑囚が異常だったのか正常だったのですが、詐病だったのかはわからない。
麻原は尊厳ある存在であり続けていたのか
宮台:
手続き的な困難がひとつあったのですが、それは本人が主体性を失った状態にあったから。実は控訴趣意書にも本人が同意したという署名が、その承認がいるところでできない状態。同じように精神鑑定も本人の同意が必要なんだけれども、本人が同意できない状態だったということがあります。
しかし控訴趣意書とは違って、精神鑑定はこれは100パーセント乗り越え不可能な障害ではない。本人は同意していないが同意能力はないものの、精神鑑定をしないと次の手続きがないということで、無理や無茶がないように複数の証人がいるところで記録をとりながら厳正な手順を踏んで精神鑑定を行っていくということが実はありうる。
そのようなことをするべきだったというふうに思いますね。もうひとつそもそも論で言うと、実は訴訟能力だけじゃなくて受刑能力も必要だというふうに考えるのが近代法制の基本です。どうして受刑能力が必要なのかと言うと、それを我々があるいは市民が尊厳ある存在だからです。
たとえば日本語で「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのがあるけれど、坊主が憎いからって言って袈裟を死刑にするのおかしいよね。つまり何を言いたいのかって言うと、相手は人間だということを前提として刑死させるわけです。刑によって死に至らしめるわけですよね。
その相手がちゃんとした人間としての尊厳ある存在であり続けているのかどうかということを確かめるということは、その人間を刑死させることの我々にとって意味になると。そういう法理があるから受刑能力が必要とされているんだということはまず確認しておきたいというふうに思いますね。
今回について言うと、その受刑能力を確認するという厳正な手順を踏まないままで、なんとしてでも死刑にしなければいけないという結論ありきだったっていうふうに思えるあたり、人間としての尊厳を失わない中で刑死に至らしめるという死刑の本質が踏み外されている可能性をまず私は危惧をいたしますね。