北海道・釧路の「炭鉱と共に消滅した町」へ行ってきた! ひたすら緑で覆われる景色の中で、物が散乱する建物だけが生々しい
今回紹介したいのは、ニコニコ動画に投稿された『【釧路廃墟探索】炭鉱と共に消滅したマチの跡 今はわずかな廃墟が遺るのみ【釧路のずんだもん】』というマルピギアさんの動画です。
投稿者メッセージ(動画説明文より)
釧路のずんだもんによる 釧路の廃墟スポット探索です 今回訪れたのは 新尺別駅のあった跡地 かつては大きな市街地が形成されていましたが 炭鉱と共に消滅し、 現在はわずかな廃墟が遺るのみです

北海道の釧路在住の投稿者のマルピギアさん。地元情報を発信する中でこれまでいくつもの廃墟を取り上げてきましたが、今回は新尺別駅という元・炭鉱の町へ行きます。尺別駅から車で10分ほどの場所にあるのですが、途中から民家も無くなり人の気配がありません。

そうしてかつて新尺別駅があった辺りに到着。


こちらは尺別炭鉱復興記念碑。尺別炭鉱は大正7年に開坑しましたが、昭和19年に一度休坑しています。しかし昭和21年に採炭が再開。水没していた坑内の排水作業を行いよみがえったのだそうです。その後、昭和44年2月27日に閉山しました。

この記念碑は以前は別の場所にあり、昭和60年にこの場所へ移したようです。

その前には広い草原が。炭鉱が盛んだった頃には4000人近い人たちが暮らしていたのだそうです。沢山の木造長屋が並び、郵便局や映画館もあったのだとか。

そんな在りし日の過去を現在に残す数少ないものの1つがこのガソリンスタンド跡。こちら側はそれ以外に特に何も見当たりません。

道路を挟んだ向かい側には大きな建物があります。こちらは尺別生活館といって地域の集会などに使われていた場所だそう。かつてはこの裏に駅舎があったのですが、今では草むらになっています。


扉が開いているので中をのぞいて見ると、玄関なのにテーブルとソファーがあり物が散乱していました。


いつの時代のものだろうかと新聞の日付を見ようとするのですが、離れていると意外と読むことができません。



読みやすそうだったソファーの上の新聞にズームしてみると1999年6月7日のものでした。ノストラダムスの大予言の1ヶ月前ですね。「滅亡を真に受けた人たちは今何を」とマルピギアさん。ちなみに、1999年はユーゴスラビアにNATOによる空爆が行われ、コソボ紛争が終結した年です。


隣の部屋を窓からのぞいて見ると鍋が残っていました。「鍋ではなく炊飯器では」、という内容のコメントが寄せられました。

その隣の窓は板が打ち付けられて見ることができません。


さらにその隣は開いていて、広い部屋が見えました。ここを集会所として使っていたのでしょうか。

マルピギアさんは裏にも回るつもりでしたが、草木の勢いがすごくて断念。30年放置されるとこんな風になるのですね。


続いては尺別鉄道の遺構へ。当時の跨道橋の一部が残されています。跨道橋とは道路の上にまたぐように架けられる橋のことです。


この上を鉄道が走っていたのですね。
ここは新尺別駅跡から100mほど離れた場所。尺別駅から新尺別駅、そしてこの先にある尺別炭山駅へと繋がっていたそうです。元は石炭を運ぶための路線でしたが、住む人が増えたことで一般客も使えるようになったとのこと。その後尺別炭鉱の閉山に伴い住民が減少し、1970年に廃線になったのだとか。

階段を登りました。生い茂る雑草にもう誰も通らないことを感じますが、この近くにはかつて小学校や中学校、幼稚園もあったのだそうです。学校はすでに取り壊されているけれど、門柱だけが残されているそう。



学校の先には当時の炭鉱住宅が2棟だけ残されているのこと。ほとんどの木造住宅は資材として売られたけれど、その2棟は鉄筋造りなのだそうです。ただし場所が私有地なので見に行くことは断念しました。

トンネルを振り返って見たところです。
炭鉱と共に栄え、消えて行った町の跡。マルピギアさんの解説の詳細に興味を持たれた方はどうぞ動画をご覧ください。
この後は尺別炭鉱へ向かうのですが、道路の舗装が途切れたゲートの手前で引き返します。道中がすでに薄暗く、夜中に来たくない、と感じたそうです。
視聴者のコメント
・なんでそんなに紹介できるほど廃墟あんだよ
・炭鉱はなぁ…
・電柱があるのが辛うじて集落があった名残を残してるな
・入らないのはえらい
・山の方っぽいけど割ときれいに残ってるね
・夜になったら当時の時間につれてかれそう
▼動画はこちらから視聴できます▼
『【釧路廃墟探索】炭鉱と共に消滅したマチの跡 今はわずかな廃墟が遺るのみ【釧路のずんだもん】』
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