『パシフィック・リム』『ヘルボーイ』…ギレルモ・デル・トロがヒットメイカー監督になれた理由を評論家らが解説「実績を積んでいく策略がすごい」
『パシフィック・リム』や『パンズ・ラビリンス』の監督で知られるギレルモ・デル・トロさん。最新作の『シェイプ・オブ・ウォーター』は2017年度のヴェネツィア国際映画祭で最高賞にあたる金獅子賞を受賞し、日本では2018年3月に公開を控えています。
『WOWOWぷらすと』ではデル・トロさんの作品『クリムゾン・ピーク』がWOWOWで放送されることを受け、映画解説者の中井圭さん、映画評論家の松崎健夫さん、ぷらすとガールズの池田裕子さんがデル・トロ作品を振り返りつつ、ハリウッドで復活を成し遂げた戦略について言及しました。
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特殊メイクからキャリアをスタートさせたデル・トロ
中井:
ギレルモ・デル・トロという名前は聞いたことがある人も多いと思うのですが、そもそもどんなキャリアからスタートしたのですか。
松崎:
8歳の時に父親が持っていたスーパー8という8ミリのカメラで、サルのおもちゃを使った短編を作ったのが最初だと本人がインタビューでいっています。
そこから時を経て学生になったのですが、メキシコ国立自治大学という南アメリカでは歴史の古い大学であり、歴代のメキシコの大統領を出しているような大学の付属の映画学校に入ったんです。
池田:
じゃあ、お勉強もできたんですね。
中井:
金持ちのインテリですね。
松崎:
そこでディック・スミスさんという当時、特殊メイクで世界一といわれていた人がいて、『エクソシスト』とか『ゴッドファーザー』『タクシードライバー』とかをやっていた人がいました。たとえば『タクシードライバー』ではロバート・デ・ニーロが最後にモヒカン姿になるのですが、そのモヒカンは実は特殊メイクだったんです。
『ゴッドファーザー』なら、当時まだ40代くらいだったマーロン・ブランドを老けさせたり、そういうことをやってる人のところで学んだのですが、最初は手紙を出したんです。
だから自発的に特殊メイクの世界に行ったというところがポイントだと思います。そして技術を経てメキシコ本国に戻ってきて、ネクロピアという特殊メイクの会社を立ち上げました。
池田:
じゃあ映画を作ろうと思ったのではなく、特殊メイクをやろうと思っていたのですね。
中井:
めずらしいですよね。編集や撮影をやっている人が映画監督になるケースはありますが、特殊メイクから監督になるのは結構レアケースです。
スタッフ:
ああいうジャンルの仕事はどんどん職人化していくから、普通は専門家になってきますもんね。
ハリウッドでの挫折、復活のきっかけになった『デビルズ・バックボーン』
松崎:
それから時を経て特殊メイクを10年ぐらいやってから、1993年に『クロノス』という作品で29歳の時に監督デビューすることになります。これがいきなりカンヌ国際映画祭の批評家週間でグランプリをとったんです。
海外で評価されてこれを見たハリウッドの人が、こいつは才能があるということで、いきなり4年後の97年に『ミミック』という2作目で、ハリウッドデビューしちゃうんです。
中井:
早いですね。
松崎:
この映画はまあまあヒットしたんが、作ってる時にすごくもめたんです。その対立した相手が、今ハリウッドのセクハラ告発で話題になっているハーヴェイ・ワインスタインの弟です。ワインスタインって本当に作品をコントロールをしようとするんです。
それで対立をして、ワインスタインがあとから書き直した脚本に沿ってやらなきゃいけなくて、クリエイティビティが担保できなくて挫折。
ハリウッドでも仕事ができなくなった、ハリウッド1作目にしてキャリア的には終わったなということになってしまいました。さらに悪いことに、メキシコではハリウッドに行った監督ということで話題になって、金持ちとか成功したイメージがつくじゃないですか。するとお父さんが誘拐されちゃうんです。
中井:
メキシコあるあるですね。
松崎:
デル・トロの父誘拐事件というのが起きて、それで家族はアメリカに移住するきっかけになります。
そして2001年に『デビルズ・バックボーン』という作品で復活をするのですが、これはハリウッド映画ではなくてスペインとメキシコの合作なんです。
松崎:
スペインの内戦のことを描いていて、これは結局『パンズ・ラビリンス』という映画にも繋がっていきます。何かが隠されているとか、子供が主人公とか、幽霊が出てくるっていうのは後々の作品に繋がっていくものになっていくんですね。