『save your dream』第6譜 金井恒太六段―高見泰地六段:第3期叡王戦 決勝七番勝負 第1局 観戦記
今期から新たにタイトル戦へと昇格し、34年ぶりの新棋戦となった「叡王戦」の決勝七番勝負が2018年4月14日より開幕。
本戦トーナメントを勝ち抜き、決勝七番勝負へ駒を進めたのは金井恒太六段と高見泰地六段。タイトル戦初挑戦となる棋士同士の対局ということでも注目を集めています。
ニコニコでは、金井恒太六段と高見泰地六段による決勝七番勝負の様子を、生放送および観戦記を通じてお届けします。
■前回までの観戦記
・第1局観戦記 『save your dream』第1譜
第3期叡王戦 決勝七番勝負 第1局観戦記『save your dream』第6譜
白鳥士郎
夕食休憩中の18時15分、対局室に入る。
雨戸が全て下ろされ、外の景色は全く見えない。物音も遠くなり、外界とは完全に遮断された。
先に対局室へ戻って来たのは髙見だった。
座布団には座らず、そのまま記録机の後ろを回って、金井の側から盤面を眺める。
「うーん……」
悩ましげな声を漏らすと、そのまま記録係の席に座って棋譜を見る。それからまた、横から盤面を見る。
ふと室外に気配を感じ、髙見は立ち上がった。
急いで自分の座布団に座ると、リップクリームを塗る。
すると、手洗いに立っていたらしい金井が、自室へ行こうと対局室を横切った。
一瞬だけ、両者が同じ空間に存在する……。
すぐに金井は自室へ入り、不思議な緊張は消えた。
髙見は座布団の上に座り直した。
そして信玄袋から、ビニール袋に入った朱塗りの扇子を取り出す。
見覚えがあった。
それは将棋ファンの間では有名な扇子。髙見が叡王戦本戦準決勝で、丸山忠久九段と戦った際に初めて使用したものだ。
髙見の師匠・石田和雄九段から贈られた、直筆の扇子である。
2014年の秋、髙見が師匠の家に泊まった際に、ねだって書いてもらったものだという。そこにはこう書いてあった。
『為髙見泰地君 祈活躍 H26・11・9 九段石田和雄』
その扇子を取り出したということは……ここが勝負所と気合いを入れているに違いない。
髙見はそれまで使っていた叡王戦の扇子を右後方に置くと、師の扇子で己を激しく扇ぎながら、再開前から読みを入れる。
金井が入室した。
朝から全く変わらない堂々とした姿勢で盤の前に座る。
しかし昼間、封印するかのように固く組まれていた両手は今、膝の上にゆったりと置かれていた。
私は記者室で頭に叩き込んだ現局面の評価を反芻する。
『互角。ただ、先手が少しいいかもしれない。次の一手は▲2九銀』
髙見は師匠からもらった大切な扇子を座布団の前に置くと、ティッシュで丁寧に拭いてから、向きを整えて盤に覆いかぶさる。
「時間になりました」
金井は即座に着手した。
▲2三歩成。
え?
盤上に出現した『と金』を見て、私は目を疑う。
候補手は▲2九銀ではなかったのか……?
この時点でもう私には形勢判断ができなくなった。
髙見はノータイムで△同金。
同じくノータイムで金井は▲同竜。
△3八歩成。
▲同金。
一瞬で5手進み、もう頭の中は完全にパニックである。
私は前日に聞いた金井の言葉を思い出していた。
『将棋は対局中、誰も声をかけてくれないので』
それがこんなにも心細いものだとは……。
髙見が「うぅん……」と唸り、ようやくここで手を止めて考えてくれている。
5分間ほど考えて、髙見は再び△3七歩。金井はノータイムで金を逃がす。
時計をチラリと見た髙見は「うん……」と頷いて、玉を△6二に逃がした。
金井は素早く▲7五金と打った。髙見の飛車を圧迫する。
スピードアップした戦いの意味を何とか理解しようと、私は盤側から身を乗り出して盤面を凝視する。
だが、それができない。
頭が重い。
集中できない。
盤に近づこうとしても、意識が遠のく。
何で?
まだ……対局が再開して10分くらいしかたってないのに……。
必死に気合いを入れ直そうとしても、意識が遠のいていく。踏ん張ろうとしても、『静寂』はその取っかかりを与えてくれない。
こんな調子で何時間も対局室にいられるのか? でも、入ってすぐに出るわけにも……そんなことを考えていると、疲労の波が急速に引いていくのがわかった。
しかし、今度は異様に集中してしまう。
執筆の時、ハイになるのと同じ感覚……普段よりも目を大きく見開き、五感が研ぎ澄まされていく。
眼球が急速に乾燥していくのがわかり、慌ててきつく目を閉じる。
人生で初めての体験に、私は恐怖した。
この時になって初めて、なぜ佐藤会長が『持ち時間変動制』について多くを語ろうとしなかったのかを思い知らされた。
この異様な感覚は、体験しなければ絶対に理解できないからだ。
この空間は人間の五感をおかしくする。対局室は、思考に適した環境などでは絶対にない。
これは檻だ。
人間を間違えさせるための、檻……。
集中『する』のではない。
集中『させられる』のであり、集中『してしまう』のである。
無意識にミスをするように、無意識に集中してしまう。
結果、意図せぬところで集中が途切れる。
ペース配分ができず、抗えない疲労が突如として襲いかかってくる……。
記者として長く将棋界に携わってきた毎日新聞の山村英樹編集委員は、私にこう説明してくれた。
「やはり、夕食休憩の後にミスが出るんです」
そこが数々の棋士を葬ってきた『魔の時間帯』だと、山村は言う。
「一日制のタイトル戦で夕食休憩があるのは王座戦だけでした。これまでは」
その王座戦で、羽生善治は19連覇という大記録を打ち立てている。
しかもその防衛劇の多くは3連勝。まさに羽生の独壇場だった。
「羽生さんが王座戦で絶対的な強さを発揮し続けたのも、羽生さんだけが『夕休後の過ごし方』の経験値を蓄え続けたからだと。ええ」
山村の考えは特殊なものではない。羽生の強さを語る際に、よく使われる説ではある。
でも……と私は常々疑問に思っていた。
夕食休憩は順位戦にも存在する。
だったらどの棋士も経験を積んでるんじゃないのか?
タイトル戦だからといって特に変わらないんじゃないのか?
明らかに甘い考えだった。
この観戦記を書く際、取材メモを読み返して愕然とした。私は符号すらまともに記入できていなかった。
対局室で、何度も何度も確認したはずなのに……。
もしこれで将棋を指していたとしたら……角の利きを間違えて、あっという間に頓死していただろう。
実際に体験してみて、私はようやく理解できた。
『静寂』と『魔の時間帯』の恐怖を。
そして持ち時間が変わってしまうことで、対局者は経験を反映させることができない。
むしろ別の持ち時間の経験は、邪魔になってしまうだろう。
5時間の感覚を引きずって3時間や1時間を戦えば、別の罠にはまるはずだ。
叡王戦の真の恐ろしさは、おそらくそこにある。
羽生が名人戦で森内俊之に圧倒されていた時期、その敗因として『二日制のペース配分に対応できなかった』と語ったことがある。
あの羽生ですら、そうなのだ。
私たちは普段、リラックスできる自室で、棋士やソフトの出す答えを見ながら、無責任に対局を観賞している。そして対局者が最善手を逃せば、それを『敗着』と断じる。
しかし勝負の本質は、おそらくそこにはない。
髙見は△5四に飛車を逃がす。
その飛車を、金井は即座に金で追いかける。夕休明けの6手を、金井はわずか3分で指している。
定跡が固まっている序盤を除けば、この対局で金井がここまで早く指したことはない。
それが何を意味するのか?
『千日手』
局面を読んでなどいない。だが、その言葉が思い浮かんだ。金井の指し手の早さは、そうでないと説明が付かないような気がした。
と、すれば……。
髙見の飛車が反復横跳びをするように、元の位置に戻るのか?
果たして6分後、髙見は飛車を持った。
しかしそれを横に動かさず、前進させた。力強く。
髙見は飛車を叩き切ったのだ。
金井はノータイムでその飛車を取るが……次の一手を見て、長考に沈む。
(つづく)
第1局の観戦記は4月20日から26日まで、毎日17時に公開予定。
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