なぜ、プーチン大統領は圧倒的な支持率を誇るのか?――ドキュメンタリー「プーチン大統領のすべて」を見て
孫崎 享
日本人の対ロシア感情は複雑である。
一方において、ロシアを愛する側面を持つ。一方において、かつてのソ連に激しい反発を持つ。それを今日までひきずっている。 多分それが、日本人のプーチンに対する評価に影響する。
日本くらい、文学の世界で、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフなどが影響を持っている国はないのでないか。毎年、どこかでチェーホフの「桜の園」などの劇が開かれている。毎年、数多くのロシアの音楽家が訪れる。チャイコフスキーは日本人の好む作曲家だ。ボリショイ・バレー団が来る。そして、不思議なことにオリンピックなど、日本の得意とする種目、体操、バレー、柔道、レスリングなどの好敵手がロシアとなり、競り合いはするけれど、それだけつながりも出る。プーチンにしても、柔道を通じての日本とのつながりがある。
他方、ソ連には1941年8月8日、日ソ中立条約があるにも関わらず、日本に対し攻撃を仕掛け、千島列島を占拠した。 日本人にとってロシアと言えば、こうした複雑な心情が交錯し、それがプーチン大統領訪日という局面にも現れる。
プーチンがなぜロシア国民に好感をもたれているのか?
まず、プーチン大統領という人物を見てみよう。
「フォーブス誌」は毎年、世界で最も力の強い人物100名を発表している。 2015年は一位プーチン大統領、二位メルケル首相、三位オバマ大統領、四位ローマ法王、五位習近平国家主席である。
多分、この順位を見て、このランクはおかしいという人がいるかもしれない。「経済、軍事で最強の国、米国の大統領がプーチン、メルケルより下というのは解せない」という人が必ず出てくるに違いない。ただ、それへの解は簡単で、オバマは大統領になっているけれども、基本的に米国金融界、米国軍産複合体の代弁者の域を越えられず、彼を「最も強い人物」にすることに米国内で躊躇する人が多いからである。
そうした一方で、プーチンをどう評価するかについては大きく分かれる。
ロシア側の支持率を見てみると、ギャラップ調査では支持率は、2009年77%、2010年74%、11年65%、12年54%、13年54%、14年83%である。そして、2016年3月実施のロシアの世論調査機関「レヴァダ・センター」は、プーチン大統領の支持率は82%と報じた。圧倒的に高い支持をロシア国民から得ている。米国ではどうか。Pew Research Centerの2015年2月実施の世論調査では、プーチンに「好感を持っている」が12%、「好感を持たない」が70%である。 日本でプーチンがどう見られているかは、残念ながら有力なデータが手元にないが、日本は基本的に米国的な見方が強いので、どちらかといえば「好感を持たない」が多いであろうと推測される。
では、プーチンがなぜロシア国民に好感をもたれているのか?
プーチンが大統領に就任した時には、ロシアは国家として崩壊の道を進んでいた。 チェチェンなどイスラム教徒の強い地域は分離が必然と見られていたし、経済は悪化の一途で、経済の底辺にいた人々、年金生活者はドン底にいた。
このドキュメンタリーで明らかにしているのは、「プーチンがKGBの一員として東独などで約20年暮らしていることが、彼の資質形成に大きい影響を与えている」としていることである。機密諜報員、いわゆるスパイとは非合法的活動をする人間である。相手国に捕まれば、監獄に行くことが想定される。この時、彼らの活動を支えるものは何であろうか。国益意識である。
私は、プーチンが諜報員として海外に暮らしたことが今日につながっているとみている。
海外にいる諜報員に求められる第一は、「事実を客観的に見る能力」である
かつ幸いなことに、「事実を最も客観的に見る」ためには、周囲の人、上の人と妥協しなければならない要請は少ない。多くの場合、国内で政治活動、官僚などを行ってきた人物は客観的な判断よりは、力の強い者との関係をどう築くかが優先する。こういう人々が上にいく。それは避けられないことだ。だから、「長期政権化」する社会では政治分野であれ、官僚社会であれ経済界であれ、トップの劣化が起こる。
プーチンという人物がロシア内で重用されたのは、「世渡りのうまい人物では危機的状況にあるロシアを救えない」という思いが、ロシアの中枢に存在していたからであろう。
また、「プーチンとはどういう人間であるか」を描き出すのが、このドキュメンタリーの目的だと思うが、ここで日本人が役割を果たしている点も興味深い。ロサンゼルスオリンピックの金メダリスト・柔道家の山下泰裕氏である。
彼は「プーチンは“上手に生きていく”ということを嫌う。自分は柔道家として、個人の利益を優先するのではなく、人間としての生き方を追求することを教えた」というようなことを言っていたと思う。山下泰裕氏は、プーチンをこのカテゴリーに入る人物とみなしているわけだ。
いま一つ、プーチンがこのドキュメンタリーで強調していたのは、「自分はエリートとして育っていない」ことである。プーチンは自伝で少年時代を振り返り、「家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごした」と語っているが、このフイルムの中でも、「共同アパートで過ごした」ことに言及している。
今日、世界の多くの政治家は自分の利益と底辺の人の利益を“別物”とみなしている。米国の大統領選挙の共和党候補でトランプが勝ち、民主党候補選択でもサンダースが善戦したのが、その現れである。しかし、プーチンはここを分けてみていない。ロシア国民はそれを適格に感じ取っているのではないか。
私は政治家の評価は、その国の抱える最大の問題に、その政治家がどう対応するかで評価されるべきであると思う。そして、少なくともプーチンという大統領が出てこなかったならば、ロシアが崩壊の道を突き進んでいたことは間違いない。
「クリミア問題」とはなんなのか
そして、もう一つ。我々がロシア、そしてプーチンを理解するうえで、認識しておかなければならないのが「クリミア問題」である。これは、我々日本人が考えている以上に複雑で、一方的にロシアが悪いわけではない。
それをお伝えするために、日本の報道が報じていない動きについて説明したい。以下は、2014年3月時点での私のブログ記事を抜粋したものである。
① ウクライナではEUとの関係を強化しようとする政権と親ロシアを追求する政権と入れ替わってききていたが、2010年の選挙でヤヌコビッチがユーリヤ・ティモシェンコを破り政権の座に就いた。
② ウクライナは2013年に欧州連合との政治・貿易協定の仮調印を済ませたが、ロシア寄りの姿勢を見せるヤヌコーヴィチはロシアからの圧力もあり調印を見送る。
③ これに対し欧州連合寄りの野党勢力から強い反発が起こり、ウクライナ国内は大規模な反政府デモが発生するなど騒乱状態に陥った(2014年ウクライナ騒乱)。事態収拾のため2014年2月21日には挙国一致内閣の樹立や大統領選挙繰り上げなどの譲歩を示したがデモ隊の動きを止めることはできず22日に首都キエフを脱出した。
④ 一方、この時期、ソチ・オリンピックが2014年2月7日から23日まで開催されている。ロシアが全く動きが取れない時を見て、政権を起こした。このデモには西側の資金や武器提供が行われている。アメリカとEU特にドイツとの間で、政変後のウクライナ指導部をどのようなものにするかという相談がされている。
⑤ クリミアはロシア黒海艦隊の母港でもあり、クリミアが完全に親EU政権になることは容認できない。特に新しい前提政権の人間は基地を利用できる協定の見直しについて発言している。
つまり、ソチ・オリンピックをターゲットに西側は仕掛けていた。
こうした工作の中心にビクトリア・ヌーランド国務省国務次官補(欧州・ユーラシア担当)がいる。米国が政権打倒に関与していることが、2014年2月パイアット駐ウクライナ大使との通話内容がYoutubeで暴露されたのだ。この内容は日本の大手メディアではほとんど報じられていない(AFP通信は配信したが邦訳配信されていない)のだが、とんでもない内容が入っている。
1月28日にビクトリア・ヌーランド米国務次官補とジェフ・パイエト駐ウクライナ米大使との電話会話をした。この会話の中で二人が「ヤツェニュクが将来の政府のトップとして最適だ」と話をし、ヌーランド女史が「クリチコ(元ボクシング世界チャンピオン)は政府に入る必要はない」と述べ、男性の声は「彼は蚊帳の外にいて、政治活動をさせておけばよい」などと言っている。チャフヌボクについても二人は「蚊帳の外に置くのがいい」ことで同意した。この会話は新政権誕生の前である。ウクライナの今後の体制はヤツェニュク政権の発足が望ましいものとされ、クリチコやチャグニボクの排除にまで言及している。現に2月27日ヤツェニュクが首相に選ばれ、クリチコ氏が党首の「ウダル」は閣外協力することになった。
電話盗聴では、同じようにショッキングな内容が暴露された。
EU外交責任者キャサリン・アシトン女史とエストニア外相ウルマス・パエト氏が2月26日電話対談した。これが暴露された。ここでパエト氏が「キエフでの抗議デモ隊と警官に銃口を向けたスナイパー(狙撃手)を雇ったのは、ヤヌコーヴィチではなく、新政権の誰かである」と話をして、「私たちはこのことを調査したい」とアシトンは答えてた。
3月5日英国「メール紙」は「エストニア外相は“抗議行動の人々を殺害した狙撃手は多分ウクライナの新政府側で雇われた”という漏洩された電話は本物であると述べた、会話はウクライナでの大量殺戮の後、2月25日行われた」と報じた。
ウクライナの政変の頂点は独立広場で2月18~20日に治安部隊と激しく衝突し、周辺からの銃撃で90人近い犠牲者が出ました。この犠牲者を出した狙撃が追放されたヤヌコーヴィチ側でなく、新政権側だとすると騒動の判断はすっかり変わる。
ではどうして、米国はロシアとの緊張を仕掛けたのか。
今から数年前、NATOは重大な決定をした。「NATOはロシアを自分たちの敵ではない」との決定だ(表現に関しては若干の技術的な工夫がなされている)。
これは極めて重要な意味を持つ。
この結果、起こりうることは以下の二つである。
① ドイツ、英国などにある米軍基地の撤退運動が一段と強くなる
② NATO諸国の軍事費が削減される
そして、この動きを望ましいものでないとして、米国のネオコン勢力がロシアとの緊張を高める政策を打ち出し、これがクリミア、東ウクライナ問題に発展した。
ロシア国民は、この事情を理解し、それがプーチン大統領の支持にもつながっているのである。
12月のプーチン訪日。領土問題はどうなるのか
さて、プーチン大統領が12月に訪日するわけだが、最大の問題は領土問題である。
私たちは、領土問題を考える時、必ず把握しておくべき歴史的事実がある。残念ながら、日本国民のほとんどが領土問題に高い関心を持ちつつ、この歴史的事実を把握していない。それを列記しておきたい。
① 1945年8月15日 日本はポツダム宣言を受諾した。ポツダム宣言は領土に関し「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ 」と定めた。
② 1945年8月18日 トルーマン米大統領はソ連のスターリンに対して「一般指令No1を、千島全てをソ連軍極東総司令官に明け渡す領域に含むよう修正することに同意します」と発信した。
③ 1946年1月 連合軍最高司令部は,日本の範囲に含まれる地域として「四主要島と対馬諸島、北緯三〇度以北の琉球諸島等を含む約一千の島」とし、「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島等を除く」とする訓令を発した。
④ 1951年9月8日 日本は「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」内容を含む、サンフランシスコ講和条約に署名した。
⑤ 1951年9月7日 吉田全権は「千島南部の択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシアも何らの異議を挟まなかったのであります」と主張した。吉田首相の演説は「千島南部の択捉、国後両島が日本領である」という「択捉、国後固有の領土論」は国際的支持を得られず、日本は千島列島全体の放棄を受諾せざるを得ず、かつ、択捉、国後を千島南部と位置付け、放棄した千島に入れている点で重要な意味を持つ。
⑥ 1956年8月19日 ダレス長官は二島返還で妥結を図ろうとする重光外相に対して、「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたら、沖縄をアメリカの領土とする」と発言する。ダレスの恫喝と言われる。
⑦ 1956年9月7日 米国務省は「日本はサンフランシスコ条約で放棄した領土に対して主権を他に引き渡す権限を持っていない」とする覚書を日本側に手交する。
⑧ 1956年10月19日 「日ソ共同宣言」が署名され、「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。この諸島は、平和条約締結後に引き渡す」が盛り込まれている。
こうした中で、平和条約を結び、歯舞・色丹の返還を実現するのは日本にとっての一つの選択である。
冷戦時代、米国は日ソ間に領土問題を持たせることによって、日ソ間に緊張を持たせることを図った。
冷戦終了後、米国は、ロシアのエリツィン政権の後押しをした。そのためには資金協力が必要で、日独の資金協力を期待した。しかし、領土問題のある日本はこれに躊躇を示した。
すると今度は、米国は日露双方に、「領土問題で日本の資金提供ができないのは困る。だから領土問題を促進させろ」と圧力をかけた。ということで、安倍政権の領土問題へのアプローチは後者の流れを汲む。
ただ日本が、現時点で領土問題の解決を図る中で、留意すべき点が2つある。ロシアの世論と、米国の動向だ。
本年5月27~30日に実施したロシアの「レバタ・センター」の世論調査では、二島(歯舞諸島及び色丹島)引き渡しによる「妥結案」に賛成は13%、71%が反対である。プーチンといえども世論を無視できない。
他方、アメリカについては次の動きがある。
アメリカ国務省のカービー報道官は9月30日の記者会見で、「日本とロシアが両国の外交関係を検討のうえ、決断したことだ。アメリカ政府が懸念したり心配したりするものではない」「ロシアのウクライナでの行動やクリミアの併合について、われわれは懸念をしており、今はまだロシアとの関係を通常の状態に戻すべきではないという考えは変わらない」と述べている。
最後に、私自身の個人的なことを述べておきたい。
私は1968年チェコ事件の直後、モスクワ大学に一年滞在した。そしてその後、1969年~1971年、1978年~1980年の2度在ソ連大使館に勤務した。
ソ連に対する深い思いがある。
それで、本編を、ソ連の詩人エセーニンの詩の紹介で締めくくりたい。これは私の『小説外務省 尖閣問題の正体』で締めくくった詩でもある。
わが思念を去らぬものー
なにゆえに カレ(注・キリスト)は処刑されたか?
なにゆへに カレはその首をいけにへに供えたか?
カレはスボタの敵、それゆえ高く頭を持し、
ひるまず 汚臭に刃向ったのであろうか?
光も影もカイサルのクリトに溢れるその国でカレは
貧寒な村々の一握の漁夫を語らい
金権のかしら カイサルに立ち向かったのではなかったか?
(省略)
わたしは好まぬ。奴隷の宗旨を
世々恭順なあの宗旨を
わが信は奇蹟につよく
わが信は人の知と力にあつい
私は信ずるー
行くべき道を歩み
ここ この大地に生身を捨ずしていつか
われならずとも誰か
まこと 神のきわに至ることを
(『エセーニン詩集』 内村剛介訳)
※孫崎氏が出演する討論番組もぜひご覧ください。