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上杉謙信が「敵に塩を送る」のは経済的な狙いがあった!? 駿河侵攻、桶狭間の戦い、川中島の戦い…義理人情では語れない戦国武将たちの知略をご紹介

 今回紹介するのは、miさんが投稿した『【ゆっくり解説】経済で見る敵に塩を送るの真実』という動画です。音声読み上げソフトを使用して、アダム・スミスケインズの二人のキャラクターが、経済的観点から「敵に塩を送るの真実」について解説していきます。

投稿者メッセージ(動画説明文より)

第15回目のテーマは「敵に塩を送る」です。
私は傷口に塩を擦り込む派です。
調べながら義理人情で送った、そうであってほしいとおもっていましたが、
はい、全く違いました。
しかもあの戦国イベントはこんなところにも影響していたんですね…
お暇なら見てね!

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アダム・スミス:
 「敵に塩を送る」は、「たとえ敵でも、苦境の時は助ける」「敵だからといって、弱みに付け込まない」という意味で使われています。戦国時代で最も知られた宿敵関係である上杉謙信と武田信玄のエピソードの一つで、事の発端は、武田信玄による「駿河攻め」です。

それまで武田・北条・今川で三国同盟を結んでいたのですが、当主の今川義元が桶狭間で敗戦・戦死すると武田信玄が今川領内が不安定になったのを見計らって三国同盟を無視し今川領である駿河に侵攻します。

 攻撃を始めたのは良いですが、内陸の武田は塩の生産ができません。それまで沿岸国であった同盟国の今川・北条から塩を輸入していましたが、北条・今川の「塩留め」によって輸入が出来ず武田の領民たちが塩不足で困ることになります。

アダム・スミス:
 川中島の戦いで5回も武田信玄と戦った宿敵である上杉謙信はそのことを知ると、塩不足で困窮している領民の為に塩を送りました。武田信玄はこれに感謝し自身が持つ名刀を謙信に送ったとされるエピソードです。

ケインズ:
 上杉謙信と武田信玄の、まるでマンガの様な良き宿敵のエピソードですね。

アダム・スミス:
 実はこれが全く違っていて、まず史実の資料の中に上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという証拠となるものがありません。

 武田信玄も別に敵である上杉から塩を送ってもらわなければならないほど塩不足で困ってはいませんでした。

ケインズ:
 漢同士の胸熱エピソードが……。

 武田信玄に塩を送ったとされる証拠がないことに「これ謎だった、歴史勉強するほど義だけでやるわけ無いって分かるし」「前提破綻するのはえーよw」といったコメントが寄せられました。

なぜ5回も川中島で戦ったのか

アダム・スミス:
 経済的な目線でみると「敵に塩を送る」は川中島の戦いまで遡る事ができます。戦国時代に興味はなくても「川中島の戦い」は知っている人が多いでしょう。第5次まで繰り返し戦い、数多くの名勝負を生み、上杉謙信と武田信玄の宿敵関係を象徴する戦いです。

ケインズ:
 なぜ両者は5回も川中島で戦ったのですか?

アダム・スミス:
 それは川中島がある善光寺平の権益争いです。善光寺平は現在の長野県の長野盆地のことで、ここには千曲川と犀川、その他の河川が多く流入し、とても肥沃な土地で古くから稲と麦の二毛作が行われていました。米の収穫高だけでも信濃全体の4分の1を占めるほどでした。

 さらに河を遡ってくる鮭や鱒の漁業も盛んだったため、内陸にも関わらず農業・水産業もできる優秀な場所でした。また善光寺平とあるようにこの地には、長い歴史を持つ善光寺という大きな寺院があります。

アダム・スミス:
 大きな寺院には参拝者や信者が多く集まり、その人々を対象に商工業が発展し門前町が形成されるのですが、当時から全国的に有名な善光寺にも門前町があり、善光寺を中心に信濃に大きな経済圏を作り出していました。

 農水産業が豊かで経済・宗教の中心地と言う善光寺平は、農業生産力が低い甲斐(山梨県)の武田はもちろん、今でこそ米所として有名な越後ですが、当時はほとんど沼地で意外と農業生産力の低かった上杉にとって喉から手が出るほど欲しい土地でした。

ケインズ:
 そりゃ5回も戦ってまで奪い合いますね。

アダム・スミス:
 特に武田はずっと小競り合いを続けていた今川・北条と手を組んでまで三国同盟を結び、背後を固めて信濃へ侵攻する力の入れようでした。武田信玄はなんとか善光寺平を自分のものにできましたが、善光寺平の獲得の為に10年以上の歳月をかけ、弟の武田真繁をはじめ優秀な家臣を多く失い、善光寺平をめぐる川中島の戦いで多大なる犠牲を払ってきました。

 その上、内陸の本望である海の獲得となると上杉謙信の本拠地、越後への侵攻が必須となります。川中島の戦いをはじめとする信濃侵攻で多くの犠牲を払った武田信玄にとって越後侵攻は国力的に見ても難しい事は容易に想像ができました。

ケインズ:
 戦上手の上杉謙信が相手だと考えると尚更ですね……。

アダム・スミス:
 そんな中、戦国時代最大のイベントが、この善光寺平の権益争いにも影響を及ぼす事になります。

 善光寺平を巡って5回も戦った川中島の戦いについて「やっぱ戦略の起点は経済だなぁ」「信濃で最も豊かな土地」などのコメントが寄せられました。

武田は塩不足で悩んでいなかった

アダム・スミス:
 1560年6月12日、三国同盟の一角、今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ戦死します。これによってすぐに今川家が崩壊したわけではないですが、優秀な当主を失った今川家は徐々に没落していく事になります。

 徐々に衰退する今川家を見ていた武田信玄は外交戦略の転換を決意します。まず今川と同盟関係にあるにもかかわらず、1565年に織田信長とも同盟を締結します。そして最後の第5次川中島の戦い(1564年)が終わった4年後の1568年に今川への侵攻に反対した息子(長男)を幽閉してまで今川領へと侵攻します。

ケインズ:
 息子を幽閉するほどとはすごい決意ですね……。

アダム・スミス:
 同じ海を手に入れるにしても元気いっぱい戦上手の上杉軍と当主が死んで結束力の無い今川軍、どっちと戦いたいかという話です。その上、今川義元は駿河を中心に港を整備し内外に向けての交易路を整え、商工業を推進し経済活性化を成功していました。上手くいけばそれらも手に入れる可能性もあります。

 さらに今川家より独立し、織田家と同盟していた徳川軍とは今川領の分割をネタに駿河侵攻の同時進行の約束を取り付けていました。このような状況で武田信玄は、戦争相手として上杉と今川を天秤にかけた時、今川に侵攻する方が得策と考えたのでしょう。

当然、三国同盟を反故にしたため今川・北条と対立。塩などの禁輸処置がとられる「塩留め」を受けることになりますが、武田領内は別に塩不足に悩むことはありませんでした。 

ケインズ:
 この時点で故事と大きく異なりますね。

アダム・スミス:
 先ほども言った通り駿河侵攻の前に織田家と同盟を結んでいました。織田も沿岸国であるため塩の生産は可能です。

ケインズ:
 あ、ここから輸入できますね……。

 武田領内が塩不足に困っておらず、織田からも塩を輸入できたことに「経済制裁は足並み揃わないといかんのだ」「あ、そっかぁ…」「ドロドロしすぎている」などのコメントが多数寄せられました。

なぜ上杉は塩を送った話が出たのか

アダム・スミス:
 武田信玄も単なる戦馬鹿ではないので、織田・徳川からの塩の輸入経路を確保した上で、三国同盟を破棄しました。

 では「なぜ上杉から塩が送られた話がでたのか?」と言う疑問が出ます。

ケインズ:
 「敵に塩を送る」は塩不足で困っていることが前提ですからね……。

アダム・スミス:
 実際に越後から武田領へ塩は送られていたと考えられますが、あくまで塩の販売が目的でした。上杉謙信は戦上手のイメージが先行しますが、かなりの商売上手のやり手で塩による利益が主な目的だったのですが、上杉謙信には善光寺平に影響力を商人の力で残すことも目的の一つであったはずです。

善光寺平の権益争いについての説明時に、実は越後の農業生産力は低かったと説明しました。上杉謙信はそんな越後の国力を高めるため、特産品と日本海交易で経済力を上げることで国力UPに成功していました。それが越後の特産品であった青苧(あおそ)の栽培です。

アダム・スミス:
 当時は木綿が普及しておらず、越後の青麻から作られる越後上布は京都の公家たちに人気の商品でした。

 その人気は京都の上方商人が越後に青苧を買いにくるほどで、さらに商人たちが日本海交易の中心地であった敦賀から越後上布を買いに来る商人の迎え入れるように直江津や隣の柏崎などに港を整備することで経済を活性化し、青苧座と言う組合を結成させ国外から青苧を買い求める船に関税を掛けるようにしました。上杉軍の強さの背景にはこの様な経済基盤がありました。

 そんな上杉謙信だからこそ交易ルート確保の重要性を理解していて戦争で善光寺平の直接的な支配権は失っても善光寺を中心とする経済圏に上杉の影響力を残すために塩商人を派遣したとしても何ら不思議ではありません。

ケインズ:
 どんな形であれ系争地となる善光寺平に影響力を残しておく方が良いですからね……。

アダム・スミス:
 また「上杉謙信は武田領民のために塩の価格を不当に値上げさせなかった」という話を聞くことがありますが、そのような史料は無く、仮に言っていたとしても織田・徳川から塩を輸入できる状況を考えると基本的に不足することが無く、上杉の塩販売にとって商売敵となる織田・徳川の塩がある以上、目先の利益だけで不当に値上げしてしまうと上杉の塩が人気がなくなって売れなくなり、武田領内の塩販売から排斥される可能性が出てきます。

 影響力を与えたい上杉謙信にとって武田領内の塩販売から排斥される事は避けたい為、「影響力を残したいから市場から排斥されないよう塩の価格を不当に値上げさせなかった」と考えるのが一番合理的だと考えられます。

アダム・スミス:
 また越後からの距離を考えると輸送コストがかかる距離の遠い南側では価格面において織田・徳川が有利になり、逆に越後に近く輸送コストが少なく済む北側は上杉が価格面で有利になれると考えれば、基本的には塩の価格は不当に高くならなかったと考えられます。

 いくら織田・徳川が塩を輸出してくれるとは言え、輸入先を一つに頼りすぎるといつか突然、価格を不当にあげられる可能性があります。織田・徳川側も上杉の塩供給がある以上は、価格面でお互いを警戒するため塩の価格が安定します。

アダム・スミス:
 塩を武田領に送った返礼として、武田信玄から上杉謙信に贈ったとされる「塩留めの太刀」は、重要文化財として現存する刀なのですが、上杉家の台帳には贈り主が武田信玄の父である「武田信虎」と書かれているため武田信玄からの贈り物とは言い切れませんが、いずれにしても武田家から贈られたのは間違いなく、そういった面で上杉謙信が今川・北条の塩留めに強調せず塩の供給停止しなかった事に対して、感謝の念はあったのでしょう。

 これで「敵に塩を送る」という故事は美談なのではなく、単なるビジネスのお話であり、桶狭間の戦いが意外と影響していて、駿河侵攻が原因で塩不足になっていなかったという事がわかってくれたと思います。

ケインズ:
 ありがとうございました。

アダム・スミス:
 そもそも「敵に塩を送る」の話が書物に出てくるのは1696年の「謙信公御年譜」という文書の中です。

ケインズ:
 100年以上後……。

アダム・スミス:
 1696年だとすでに江戸時代になっているし、さらに上杉家は越後から米沢に移った後です。「謙信公御年譜」のなかでは謙信の言葉として、「今川から塩を留めるように頼まれたが、甲斐の人たちが苦しむだろう。今川の手段は浅はかだ。人道に背くことはできない。信玄とは弓矢で戦う。以前と同じように信玄の領地に塩を送るように」と残っていますがこれは上杉家による一種のプロパガンダだと考えられます。

ケインズ:
 いつの時代もプロパガンダはあるんですね……。 

 上杉家の塩の市場対応や「敵に塩を送る」というのが一種のプロパガンダだったということに「国を持つって大変なんすねぇ~」「戦争は経済活動の一環とはよく言ったものだね」「そんな背景があったのか」などのコメントが寄せられました。

 二人の解説をノーカットで楽しみたい方はぜひ動画をご視聴ください。

▼動画はこちらから視聴できます▼

【ゆっくり解説】経済で見る敵に塩を送るの真実

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