話題の記事

海洋堂 創業者が語る日本の模型・フィギュアを支え続けた57年――ワンフェス運営・ガレージキット・完成品販売…プラモデル普及に生涯を賭けた親子二代の物語【話者:宮脇修・宮脇修一】

■お客さんだったガレージキット好きの少年が後の“エヴァ声優”に!

センム:
 今井科学さんもキャラクター物のシリーズを商品化している間は調子がよかったんですが、結局ブームが去ると経営は傾いていきました。いかにキャラクターもののブームは先が読めないか……。

 僕ら海洋堂はアートプラという概念で模型の新しい付加価値を作った。それは模型屋がプロフェッショナルとして完成品を売るという新しい取り組みです。アートプラを進めるために店舗とは別の家を借りて、模型の組み立て工房を始めたのがその頃かな。

――まさに、海洋堂が芸術品を生み出すアトリエを持ったということですね。先程からお話を伺っていると、単に模型という商品を売るだけでなく、業界全体を盛り上げる啓蒙活動のようなことに館長はご尽力されていた感じが伝わってきます。

センム:
 館長の場合はプラモを作るというよりも、模型で何か商売をするほうが好きなんですよ。エンターテインメントとして模型を楽しんでもらうということですね。先程も言いましたが、子どもらと遊んだり、神社の境内やら公民館でプラモ教室を開いたり、模型の楽しさを広げることに昔から取り組んでおりましたね。

館長:
 ええ。今でもそうですがやっぱり、模型を楽しんでもらうということが一番の基本にあることですからね。

センム:
 先程は、儲けが出たらすぐお店を改装すると言いましたが、同時に館長はすぐに本を作るんですよね。海洋堂の活動を盛り上げるために活字で自分たちのPRをしよりました。1965年からかな。『海洋』という模型屋としての会報誌を作ってお客さんに配ってました。「模型はこんなに楽しいですよ!」ってね。

 館長は、模型屋を始める前は物書きやってましたから、ひたすらスローガンとかキャッチフレーズが大好きなんです。常にそういうのを旗印にしていろんな作戦を実行していきました。

海洋堂が発行した会報誌『商いの手帖』『海洋』(写真提供:海洋堂)

 結局、模型業界はメーカーにしろ、小売屋さんにしろ、流通にしろ、海洋堂のように二代目がぶいぶいやってることは珍しいです。1970年代の頃は一つの小学校区に5、6軒ぐらい模型を取り扱ってる小売りがありましたけど、今では模型屋すらなくなってしまいました……。

館長:
 当時、ブームの頃は全国に1万軒くらい僕らみたいな、ちっさなプラモデル屋があったんです。それが波が引くように一瞬にして静まってしまいました。10年の間にプラモデルのかなり精巧な商品が作られても、世間には役に立たんものになってしまう。

――たしかに、今では家電量販店の隅っこにガンプラがちょっと置いてあるだけだったり……。それって、プラモデルに対抗する新しいおもちゃが日本で流行ったとか、プラモデル業界の外側に要因があったりするんですか?

センム:
 当時は、インベーダーゲームを皮切りにゲーム屋さんに全部押されて終わってしまったというのもあります。
 ゲームに押されてしまって、子どもたちは一切プラモには見向きもしなくなってしまいました。『サンダーバード』やガンプラとかあったけども、結局はみんな、テレビゲームの前には負けてしまった。

館長:
 しかし、そんな状況でもプラモデルを作り続けてる人間はいてて、既存のプラモデルに飽き足らん若い子たちが海洋堂へ集まってきたわけや。

センム:
 そうした流れを受けて80年代から始まったのが、ガレージキットという完成度に軸足を置いた新しい模型の商売というわけです。

――ガレージキットというものは、普通のプラモデルよりも精巧な模型ということなのでしょうか?

センム:

 たとえば、当時の怪獣のガレージキットは指の一本や二本、牙がないのは当たり前。「爪や棘は、プラスチックを削り出して自分で作れ」という感じでした。今の時代だったら、「こんな不良品売ってどうするんだ?」というやつを、「あとは自分で作れよ」というわけですね(笑)。
 当時のガレージキットは、そんな当時のプラモデルよりもはるかに上位表現性を持った模型だったんですよ。当時のプラモデルに満足できなかった人間が、自分たちの満足できるものを作るためにはじめたことだったんですね。100点ではないものを100点にしようとする。それは……ある種の意志ですよ。 

 きっかけは81年に、海洋堂によく来ていたお客さんのひとりで、歯科技工士の川口さんという方が「こんなん作ったんやけど」と、樹脂を使って作ったモスラの幼虫を持ってきたんです。当時の歯医者が使う樹脂ですから造形物を作るには硬くて使いにくいものでした。

 しかし、個人でも手に入れられるシリコンとレジンキャストを使えば、一つの完成品から複製が取れることがわかった。メーカーが作るような金型がなくても個人で複製を作ることができる。これが革命的なことやったんです。
 ちょうどそのときの海洋堂には、スロットレーシングのコースがあって、僕らは真空成型でレーシングカーのボディを作るなど、自分たちで成型する技術があったことも背景にありました。

――当時の海洋堂には、ガレージキットを始めようとする模型好きが集まりつつあったということでしょうか?

センム:
 市販されているプラモデルに飽き足らず、自分たちが欲しいものを作りたい。そういった人たちと一緒になって生み出すエネルギーが当時のガレージキット界隈にありました。お客さんと商店の関係でしたがある種、同志の感覚に似ていましたね。同志といえば、その頃のお客さんには、今ではエヴァの声優もやってる関智一さんもいはりました。

――えっ! 鈴原トウジの声をやってる関智一さん!? 関さんも海洋堂に通ってガレージキットを買ってたんですか?

センム:
 関さんは当時、中学生のお客さんでガレージキットの作り方をお店で教えてもらってましたよ。後に関さんが自分で原型を製作したフィギュアも販売するところまでいきました。

海洋堂本社に所蔵されている関智一氏が原型を製作したフィギュア『ウルトラマンレオ対ブラックギラス』。現在ではプレミアが付いている貴重な未開封品だ。(写真提供:海洋堂)

 関さんのように当時の中学生……小学生ぐらいの年齢の子供であっても、自分らが作りたいものを作りたい! というエネルギーがあったんでしょうね、ガンプラのブームも手伝って早熟な子がお店にはいっぱい来てました。そういう子たちも一緒になって創成期のガレージキットというジャンルを広めていったように思います。

 当時の海洋堂には、そういう才能を持つ者が集まってぐつぐつとしているような……ひたすら手を動かして物を作って、ガレージキットの発信地になりつつある感じがあったと思います。

■ワンフェスの「当日版権システム」は“ご厚意”で成立していた!

――そうしてガレージキットのブームが今のワンフェスにつながってくるわけですね。なぜいち模型屋だった海洋堂がワンフェスを運営するようになったのか、今日のインタビューではその経緯にも迫れればと思っていました。

東京都立産業貿易センター(現在の浜松町館)で行われていた頃のワンダーフェスティバルの様子(写真提供:海洋堂)

センム:
 別にワンフェスの運営を続けていることにロジカルな理屈はないんですよ。理屈ではなくパッションだけでやるのが館長のスタイルだし、海洋堂のスタイルなので。あほな熱量がまずは大事というね、どうせ賢くはなれんし。

――ロジカルな理由はない……とは言っても、ワンフェスからは単に商品を売るイベントというより、黎明期の模型業界の地位を向上させるために、館長がおこなってきたような普及啓発的な側面を感じます。

センム:
 そうですね……ワンフェスというのは、今はオタク評論家をしている岡田斗司夫と武田康廣がアニメ制作会社であるガイナックスを作る前、84年当時、彼らは日本で流行っていたSFブームのなかでゼネラルプロダクツというSFグッズのショップを大阪の桃谷で開いていました。

 海洋堂は模型の中でのSFキャラクターというものも扱っているということで、敵というほどでもないがライバルというか……お客さんが被るところはあったわけなんですよ。そこでゼネプロの彼らがやってきて、海洋堂からは館長と僕と、ゼネプロからは岡田と武田が顔を合わせて手打ち式みたいなものをやったんです。

――手打ち式……昨今、なかなか聞かない単語ですね。

センム:
 「ワンフェスというものをやりましょう」と発案したのは、ゼネプロの彼らだったんですよ。彼らが主催して1991年までやって、「あとは海洋堂さん、全部あげるから引き継いでください」ってことで僕らにくれたのが今に至るまでの流れでした。

――「くれた」と言っても海洋堂は物作りの会社ですよね? ワンフェスのイベント運営はまったく畑が違うわけで、そこには苦労があったのではないでしょうか?

センム:
 むっちゃくちゃ難しかった! 僕らはイベント屋でも何でもなかったからね。
 ただ……ゼネプロさんに「もし海洋堂さんがワンフェス引き受けんかったら……他の模型メーカーさんに持ってかれてまいますよ?」と脅し文句を言われてしまって。「そらまぁ、嫌ですなぁ……。じゃあ、うちやりますわ!」となったわけです。

一同:
 (笑)

――ワンフェスでは「当日版権システム【※】」がありますよね? それを始めに構築したのは当時のゼネプロだと思いますが……「一日だけだから許してよ」という、義理人情のようなシステムがなぜ今日にも生きているのでしょうか?

※当日版権システム
簡易的なアマチュア向け商品化許諾制度。この制度はガレージキット展示即売会に特有のものであり、通常の企業間で行なわれる商品化の許諾プロセスとは異なり、手続きは大幅に簡略化されている。

センム:
 とりあえず、その当時からすごくグレーゾーンで、メーカーのご厚意の上に成り立ってるものでした。なので、ライセンシングビジネスが成り立ってる大手メーカー、それこそいちいち名前を挙げたらえらいことになりそうなちゃんとしたところ(笑)は、なかなか厳しいけども、「当日版権システム」はそもそものスタートがそういう曖昧なところから始まって奇跡的にずっと続いているものです。
 なぜそんなことが実現できたかというと……そこは海洋堂が企業らしくなかったからかな、と。

――「企業らしくなかった」というと?

センム:
 ゼネプロもそうでしたが、海洋堂もビジネスというよりも心意気でやってる部分がワンフェスにはあります。そして、それにみんなが賛同してくれているというか。

 言ってみれば、出版社やメーカーにとっても、自分たちが作ったキャラクターや商品を、出展者はファン活動としてフィギュアにしているということはわかっているわけです。
 だから、そこはぎりぎりのところでメーカーと出展者の関係が成り立っているわけです。そこに、ビジネスライクなきちんとしたものを持ってくるのは今後も難しいでしょうね。

――なるほど、海洋堂が心意気でワンフェスを運営していることが、権利を保有する側からも理解を得られていることに一役買ってきたのでは、ということですね。

センム:
 だからこそ、僕がワンフェスの実行委員長として目が黒いうちは、まだそういう縁日みたいなことはやれるかなと。
 そのうち、運営の形態は変わってくるとは思います。おそらく今よりももっとビジネスライクなものにはなるでしょうが、僕が実行委員長として浪花節でやっている間は海洋堂の理念としてそこは大事にしていこうと思ってます。

 そもそも別に、ワンフェスに私利私欲はないのですわ。もともとええ豪邸みたいなところで生活をしたいとか、あんまりそういう気持ちはなくて、そこそこでかい家はコレクションのプラモの置物ハウスになっておるし……ゴージャスな時計もないし……。

――たしかに、これでセンムがランボルギーニとかに乗ってたら裏切られたような気持ちになりますね。

センム:
 けど、88ミリ砲やら、ケッテンクラート乗り回してるけどね!

――それは、逆にいいですね!

センム:
 たしかに、これがランボルギーニとかフェラーリとかポルシェに乗ってるような人間やったら悲しいですよね(笑)。

――当時、グレーゾーンなところで、いち小売店だった海洋堂がワンフェスを主催するようになったことで、同業者からの僻みのようなものはあったりしませんでしたか?

センム:
 僕は模型を作って楽しんでるのが好きなんです。ワンフェスは自分の好きな場所やから、別にそれが苦労とか、そういうものは思わないですね。
 それに、正義を行えば、世界の半分は敵に回すもんだと思うんです。でも残りの半分は強烈な味方になるというのも、よくある話。館長が、模型業界で今に至るまでずーっと周りを敵に回しつづけたように(笑)。

 館長は一匹オオカミなんですよ。だから常に利用されてしまうし、周りが敵ばっかり。でも、そのほうが戦闘民族みたいで、楽しいじゃないですか。

――館長、息子さんは「海洋堂は戦闘民族だ」とおっしゃってますけども?

館長:
 ハッハッハ! まあ、そのとおりやと思う。
 僕自身、何かひとつの枠の中に入っていたら、これまで海洋堂がやってきたようなことは、絶対にできないですから。

■50年前に交わされた子どもたちとの約束と海洋堂を貫く「ものづくり精神」

――“海洋堂の若旦那”であったセンムがガレージキットやワンフェスへと飛び込んで行き、徐々にセンムに会社の経営が移っていくなかで、館長にはホビーランドの構想が生まれていった、ということでしょうか?

館長:
 いやいや、50年ほど前に海洋堂がまだちっちゃなプラモデル屋やったときから、僕は店の子どもらに「ホビーランドを作るぞ!」とデタラメなホラ吹いとったわけ(笑)。そのホラが50年経ってようやく形になったんやね。
 今思えばホラというか……夢ですかね。三十過ぎた哀れな男が、子ども相手に本当に小さなプラモ屋をしとる時分でしたから。

――館長は、子どもたちとの約束を果たしたわけですね。

センム:
 これまでにも、東京の茅場町や渋谷にギャラリーを出したり、高知県に博物館やミュージアムを作ったりはしておったんですよ。それが去年の2月ぐらいに館長が急に「ホビーランドを作る!」って言い出して。

 そもそもは、館長がおととしの10月に中国の故宮博物院へ行ったとき「こんなのに負けるか!」となってしまって。帰った瞬間に、うちの全社員を本社の会議室に集めて「お前らに迷惑かけるつもりはないけど、これから海洋堂本社を博物館にする。だから年内には出ていって社屋を空っぽにしろ。仕事はどっかで勝手にやってくれ」と(笑)。

一同:
 (爆笑)

――子どもたちとの約束を守るためとはいえ、完全に暴君じゃないですか。めちゃくちゃだ(笑)! 

センム:
 ほんまに社屋を博物館にするつもりで、お客さんが来るときの駐車場や交通機関の相談を門真市にしてたんですよ。
 このイズミヤの3階は、当初博物館の倉庫として使うために門真市と話を進めておったんですが、館長が下見に来たときに広さに感動して「ここにランドを作るぞ!」とコロッと方針が変わって……社屋から出ていってくれと言ってから1ヶ月で言うことが変わったわけです。

――では、たまたまイズミヤのテナントが空いてたから、社屋から出ていかなくて済んだということですね。

館長:
 ホビーランドをやるのに、人手が必要やったからワンフェスで「志のあるやつは館長のとこへ集まれ!」とビラを撒いたんです。

センム:
 労働内容も雇用条件も一切書かれていないビラでしたが……。

ワンダーフェスティバルで配布された海洋堂ホビーランド人員募集のビラ。業務内容と雇用条件の詳細は一切書かれていない。

館長:
 そしたら、そのビラを読んだ者で働き出しとる者が今二人ほどいてます。ひとりは50歳くらいやったかな、もうひとりは32歳で東京藝大行っとったとかで、なかなか絵もうまく描きよります。あとはパートの方が3人。それだけで今ホビーランドの準備は進めよるんです。

――ビラに共鳴した人がいたんですね。

センム: 
 これからオープンに向けて最後の仕上げですが、まあ、そのときはもう海洋堂の関係者に国家総動員法が発令されて、全員で飾り付けを手伝う予定ですわ。

館長:
 今までにも、海洋堂の博物館や、ミュージアム的なものは四万十にも長浜にも作ってますから、それと似たようなものじゃあ面白くないと思てましてね。この「館長の部屋」に展示されたものにも、一つ一つに物語があるんです。

 たとえば、あなたの後ろにあるこの木の根っこは、ここに来るまでにどのぐらいの年月がかかったと思います?

――うーん、これだけ大きな木が育つだけでも、少なくとも100年いや、200年くらいかかるでしょうし……埋まってた期間を含めると300年くらいでしょうか?

館長:
 この根っこは1100年、土の中に埋まってたんです!それが、今僕んところに来とるわけやね。

 では、なぜそんな1100年も埋まっとった根っこをここに置こうと考えたか? 1100年も自然の中にあって、風やら雨に打たれて耐えて今まで生きてきた、それがここに形をもってある。海洋堂はこれまでにいろんなものを作ってますが、それは物作りの一番大事なことで、ぼくらは見習わないかんのと違うかなと。恐らく、これを見た子どもが1100年経って自分の目の前にあることを知ったら、感動するんちゃうかな。

 他には、この石。僕は東北の震災のあとに、海洋堂に来た子どもらを10人ぐらい連れて東北を回ったんです。そしたら、気仙沼のがらくたの中にこれがぽつんとあったんです。

――こんなきれいな石が……。

館長:
 恐らくどっかの家がつぶれて、落ちたんやと思うけど。これだけ、うまいこと何も傷もつかんと、こんな形でぽーんとありました。

 そして、これが10日ほど前に四万十から持ってきた、明治時代に作られた木彫りのエンコウの像です。とある酒屋の奥さんがこれを寄贈してくれたので飾っています。

――エンコウ?

センム: 
 猿猴(えんこう)です。高知県の四万十に伝わる妖怪で、これがかっぱ伝説につながっていったと言われていますけどね。高知では、かっぱのことをエンコウと言うんです。

館長:
 これが今日のかっぱの原型なんです。皆さんに言いたいのは、これが物作りの究極なんです。

――どういうことでしょうか?

館長:
 ガレージキットであろうが、この根っこ一つでも、“作る者”が目指す究極は一緒なんです。木の根っこや石を見て、誰もこれを作られた物と思わへんけど、「自然が作った」と思うたら尊敬せないかんでしょう? 作られた物には、どんなもんでも尊敬すべきところがある、とね。

――なるほどつまり……自然が形作った石とか木や、職人が作った帆船模型やガレージキット、木彫りのかっぱも同じ価値がある、と。そうした感覚が、カプセルQの生物フィギュア【※】のヒットにつながっている気がします。

※カプセルQの生物フィギュア
1999年にフルタ製菓『チョコエッグ』の食玩として始まったシリーズ。後に『チョコQ』、『カプセルQ』と名称をあらため、様々な動物フィギュアが商品化され食玩ブームの火付け役となった。(写真提供:海洋堂)

センム: 
 カプセルQの生物フィギュアの成功は本当にロジックでなく、パッション……偶然でした。ヒット商品なんてのはマーケティングできるわけないので。
 「お菓子のおまけで精密な模型を入れてみたらどうだろう?」というアイディアが生まれたところに動物を得意とする松村しのぶという造形作家の存在があったり、海洋堂が中国の工場と関係を持ったところだったり……。

 館長の模型・造形物に対するこだわりや、精密なミニチュアでも満足できず、すごいモンが欲しい! という気持ち……宗教論を持つわけやないですが、一生懸命に動いていると、本当に棚からぼた餅で何か落ちてくる。それは計算とか考えたりしてやってるわけじゃないんです。
 すべては偶然に偶然が重なって必然になったおかげ。何もかもやり続けなければ、これまでの様々なものは手に入れられなかったわけですから。すべては結果オーライといったもの全部がくっついて今の海洋堂になっているわけです。今回の海洋堂ホビーランドでは、そういった海洋堂のすべてを皆さんに見せるという意味でもあります。

館長:
 今度のホビーランドは、関係者からすでに反応がきております。

 猿猴(えんこう)の像を送ってくださった方のご家族のように、僕と同じような世代の人間はいろんなもんを押入れに仕舞いこんどるわけですな。
 「送ってきてくれたら展示します」と僕が言うたら、日本中からホビーランドにいろんなもんがどっさりくるんと違うかな? 僕に言わせれば、自分が大事にしているものを押入れなんかに置くなよと、人に見せんようにするよりも、ここでみんなに見せたらどうや? とね。
 押入れの中へひっそり置いて、自分に自慢するのもええんねんけど、それを皆さんに見せたらどんなに価値があるか。 

ホビーランドには、恐竜・ティラノサウルスとトリケラトプスの実物大頭部レプリカが展示されている。これは、宮脇館長と40年以上親交のある、映画『グレムリン』などの特殊メイクを担当し、アカデミー賞を受賞したクリス・ウェイラス氏から93年に特別に贈られたものであり、海洋堂はそれを誰もが鑑賞できるようにと、寄贈以来社屋の屋根に飾り続けた。

――たしかに、せっかくの自慢の一品なら人に見せて反応を見てみたくなる気もします。

センム: 
 僕ら海洋堂の人間は、木の根っこであろうが石であろうが、すごくいいディティールだったり色合いを持っていると、やっぱり見るだけで心が震えますからね。そうして集めて飾っていくうちにこんな部屋が出来上がる(笑)。

 ここホビーランドは海洋堂が作ったものと館長が集めたもの、つまり自分らが好きだと思った「作られし物」が集まっている場所ですから。これだけの規模で展示をできる模型メーカーは、そうそうないと自負しています。

■ホビーランドは、ぜんぜん集大成じゃなかった!

――館長は「ホビーランドの設立」という子どもたちとの50年越しの約束を果たした今、これからはホビーランドの運営に集中して海洋堂の将来は息子さんをはじめ後進に任せていくおつもりなのでしょうか?

館長:
 いいえ! ホビーランドはまだ始まりですから。僕が今、93歳やから「ホビーランドは始まりや」と言うたらみんなが笑うでしょうが、今度のホビーランドがうまいこといくのは、これは確実やと思うてる。それはもう、これだけのもんをこしらえたんやから、皆さんが驚くでしょう。

 そしたら今度は、故郷の高知へ行って「かっぱランド」いう博物館をこしらえよう思てます。その「かっぱランド」の予定地から4キロくらいのところに馬之助神社という神社があるんですが、そこをもっとすごい神社にしたろうと……で、それらをつなぐ鉄道も走らせてホテルもでーんとこしらえて……。おそらく、本格的なディズニーランドに近いものになると思う。

センム: 
 ……。

――なるほど鉄道とホテルですか……とりあえず館長は、ホビーランドの完成後も引退するつもりは?

センム: 
 まったくないでしょうな。館長にとってホビーランドは次のためのステップですから。ウォルト・ディズニーが1966年に亡くなってから今でもディズニーってブランドが残ってます。館長が海洋堂やホビーランドのような施設を作ってあとに残す。
 後の世に少しでもそういうエネルギーが残れば、それがわれわれの価値やし、ご紹介した木の根っこと同じで、引き継いでいく誰かが現れてくれれば、それでいいのです。

――ということは、この海洋堂ホビーランドは集大成というよりも……。

センム: 
 これからまだあるんだということですね。ほんまに、館長は終わらへんのですよ(笑)。

[了]


 子どもたちの心を掴む店づくり、アートプラの提唱と完成品販売、模型業界の常識にとらわれないテーマのオリジナル商品の展開、ビジネスよりも心意気を優先するワンフェス、そして集大成であり次なるステップでもあるホビーランド……。

 宮脇修館長、宮脇修一専務の両名が語る海洋堂のエピソードに、取材中は終始圧倒されるばかりだった。

 しかし、海洋堂は決して順風満帆な道を歩んできたわけではない。
 本記事では語られることはなかったが、過去に宮脇修氏は自身の著作のなかで、会社の資金繰りに奔走するなか、そんな状況で自身の店を中学校を出たばかりの息子に継がせることへの葛藤を綴っている。

 宮脇父子は自身を“戦闘民族”だと言う。好きだと思ったもので“商い”をする人生は、文字通り戦いの連続だったのではと思う。

 「自分が大事にしているものを押入れなんかに置くなよ」

 “形”が持つ美しさに魅せられて、ひたすらそれに殉じてきた宮脇修氏の言葉が何度も頭をよぎった取材の帰り道だった。

■info

・宮脇センムの解説と共に、海洋堂ホビーランドを巡る生中継は6月26日19時から! 

バナーをクリックで番組ページ

・プレゼントのお知らせ

「インタビュー記事」の最新記事

新着ニュース一覧

アクセスランキング