高畑勲『かぐや姫の物語』はテレビ向け?評論家が語るテレビドラマと映画の「作家性の違い」とは
毎週日曜日夜8時から生放送中の『岡田斗司夫ゼミ』。6月17日の放送の中で、岡田斗司夫氏は「現代のドラマやアニメなどの娯楽作品は二極化している」と説き、先月20日に行われた『かぐや姫の物語』に対する評論の補足として、故・高畑勲監督の作家性について改めて言及しました。
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現代の娯楽作品は二極化している
岡田:
今のアニメの作り方、映画の作り方、小説も漫画もそうなんですけども、二極化してるんですね。
1つ目は“わかる人にはわかる深み”というのをずっと作っていくような作品。作者としても「初心者にもわかりやすくはしてるけど、実はその奥にもいろいろと考えて用意してるんだよね。まあ、ついて来れる人だけついて来てくれればいいよ」という作り方。
意外にも『進撃の巨人』はそういう作り方をしてるんですよ。あとは『絶望のネバーランド』もそうかな? 他にも『HUNTERXHUNTER』なんかもそうなんですけど。
それに対して、2つ目は誰にでも等しくわかるような作品。「漫画とかアニメの役割というのは、とにかくわかりやすいことであって、テーマとかも、できるだけセリフとして直接表現するし、とにかく間口を広げて、できるだけ沢山の人にわかってもらおう」という作り方。このどちらかに二極化してるんですね。
劇場作品とTVシリーズの違い
映画作家というのは、どちらかというと前者のタイプが多くて「わかる人にわかればいい」ってしがちなんです。だけど、テレビドラマって逆なんですよ。「見てる人全員にわかってほしい」という文法で作るんですね。
なので、結果として、テレビで活躍している人が映画を撮ると、ほぼ失敗するんです。これはもう、「ほとんど例外なく」と言ってもいいくらいです。僕も好きだったテレビであんなにイケてた人が、映画を作ると深みがなくなってしまう理由は、テレビと映画が本質的に持っているものが違うからです。
テレビドラマというのは、全てを明らかにして、誰にでもわかるようにして、わかるものを連続して何話も何話も話数を掛けてゆっくり見せながら語っていくものなんです。『真田丸』もそういう作り方でしたよね。
しかし、そういうやり方は、こと映画に来ちゃうと「含みがなくて面白くない」ものになってしまうんです。宮藤官九郎にしても誰にしても、とりあえず、僕がテレビで好きな人っていうのは、全員、映画に行くとダメなんですけども、そこら辺が原因じゃないかと思っています。作家によって“ホームポジション”というのがあると思うんですよね。
高畑勲監督はTVシリーズ向けの作家だった
そういう意味では、高畑勲監督に関しては映画ではやり過ぎになるんです。でも、テレビシリーズとして『赤毛のアン』とか『アルプスの少女ハイジ』とか『母をたずねて三千里』をやった時は、ドンピシャだったんです。
“高畑ボリューム”っていうのかな? 高畑さんが作品を作るときに込める、深みや教養というものは、テレビシリーズとしてはちょうど良いんですけど。これが映画になると、もう、カルピスの原液状態になってしまうんですよね。
高畑さんの『火垂るの墓』にしても『かぐや姫の物語』にしても、ストーリーだけ見れば絶対に弱いんですよ。
だけど、それをテレビシリーズに持ってくると、ベースとなるストーリーが弱くても、何話も何話も掛けて丁寧に語れるから、すごいものを伝えられる。
例えば、『母をたずねて三千里』なんて、言ってしまえば「イタリアのジェノバにいた、10歳にもなっていないような少年のマルコが、大好きなお母さんに会いたい一心で、一生懸命に海を渡ってアルゼンチンまで行って、さんざん苦労してお母さんに会えた」というだけの話なんですよ。
だけど、これをテレビシリーズとして50回に分けてやったらどうなるのかというと、ものすごいことになるわけですね。
本来、高畑さんというのは、そっちに向いてる作家なんですよ。それなのに、1年連続のテレビシリーズに使うような情熱を、たった2時間くらいの枠の中に込めてしまうと、『かぐや姫の物語』のような、どこまで掘っても底が見えない“沼”みたいな作品が出来てしまいます。
やっぱり、正直言って、僕は「高畑さんはテレビの作家であった」と思います。その点、宮崎駿はテレビでも映画でもどちらでもいける、ちょっと稀有な才能を持っていたというふうに思っています。
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